ボラクチン (オゴデイ皇妃)
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生涯
『集史』「オゴデイ・カアン紀」では第1の妃(Khātūn-i avval)で「全皇后たちのうちで最も年上であった」と記され、また『元史』巻106后妃表でも「正宮孛剌合真皇后」と記されるなど、オゴデイの妃の中でも最も地位の高い女性であった。しかし、『集史』では出身部族名や父親名が空欄となっており、その出自については不明な点が多い[1]。
ボラクチンの事蹟については記録が少ないが、ボラクチンと推定される人物が儒書・医書・陰陽・卜巫・諸子百家を網羅する『道蔵』の刊行を支援したことが庚子(1240年)年3月17日付「紫微宮懿旨碑」に記されている[2][3]。この碑文の冒頭は「依旧行東宮事也可合敦大皇后懿旨并妃子懿旨……」と始まっているが、これは「幼年の東宮(=皇太子)の代わりに大皇后と妃子が出した懿旨」と解釈できる[4]。1240年時点で「幼年の東宮」はシレムンとしか考えられず[注釈 1]、その祖母で「大皇后」と呼ばれ得る人物はボラクチンしか存在しないことから、これはボラクチンが出した懿旨と理解されている[5]。さらに、シレムンの親はオゴデイの後継者候補であったクチュであるため、この碑文の記述からボラクチンはクチュの生母であったと推定されている。なお、ボラクチンが平陽路に『道蔵』の刊行関連の指示を出した命令文の末尾はウイグル文字モンゴル語で碑文に記録されている[6]。
その没年については、1240年に「紫微宮懿旨碑」を出して以後、まもなく亡くなったものと推定される[7]。