ポストクリティーク

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文学批評や文化研究において、ポストクリティーク(postcritique)とは、批評(critique)、批評理論、イデオロギー批判の方法を超えた、新しい読み方と解釈の形式を模索する試みである。これらの方法は、ポール・リクールによって「猜疑の解釈学」(hermeneutics of suspicion)と呼ばれ、イヴ・コゾフスキー・セジウィックによって「妄想的」あるいは「猜疑的な」読み方と形容されてきた。

ポストクリティークの提唱者たちは、これらの読み方に伴う解釈の実践が、もはや有用な結果や興味深い結果を生み出しにくいと主張する。リタ・フェルスキとエリザベス・S・アンカーは、共編著『Critique and Postcritique』の序文で次のように述べている。「テキストを問い詰め、神秘を解き、異化する行為が持つ知的・政治的報酬は、もはやそれほど自明なものではなくなった。」

ポストクリティーク的な文学作品の読み方は、代わりに感情や情動(affect)を強調したり、読者の経験におけるさまざまな現象学的・審美的次元を記述したりする。また、受容の問題に焦点を当てたり、読書を通じて得られる哲学的洞察を探求したり、形式主義的な問いを作品に投げかけたり、「混乱の感覚」を解消しようとしたりすることもある。

重要な点として、ポストクリティークは批判を単純に拒絶するものではなく、批判を補完する新しい解釈の実践を加えようとするものである。批判はある状況では価値があるが、他の状況では不十分であるとみなす。フェルスキは『Uses of Literature』の中で、批判的読み方とポストクリティーク的読み方は共存しうるし、共存すべきであると主張している。「結局のところ」と彼女は言う、「私たちは皆、リクールの助言に従い、猜疑する意思と耳を傾ける熱意を組み合わせるべきである。分析と愛着、批判と愛情を融合させた読み方ができない理由はない。」

フェルスキは後の著作『The Limits of Critique』において、自分の議論は「批判に対する論争として構想されたものではない」と丁寧に指摘している。同様の精神で、クリストファー・カスティリアは、学者たちが「批判ぶった態度(critiquiness)」——彼が自己満足的な知ったかぶりと徹底した懐疑主義に関連づけるもの——を放棄すれば、批判は救済されうると主張する。

ポストクリティーク的なアプローチは、しばしば実験的であり、標準的な批判の手法に対する「新しい可能性や知的代替案を試す」ことに関心を寄せ、新しい読み方の様式、姿勢、立場を発見しようとする。

マシュー・マリンズによれば、ポストクリティークは人文科学のより広い役割と目的を理解する上で重要な示唆を与える。彼は、ポストクリティークが実践者に「人文科学がなぜ重要なのかを主張するための肯定的な言語と方法」を提供すると指摘する。特に、高等教育が民営化や功利主義といった勢力から脅威にさらされている時代において、この点が重要である。

フェルスキは、マイケル・ポランニーをポストクリティークの重要な先駆者の一人として挙げている。

ポランニーは1958年の主著 『Personal Knowledge: Towards a Post-Critical Philosophy』 で、「ポストクリティカル(Post-critical)」という概念について論じていた。「Post-Critical(ポスト批判的)」という言葉を明確に使い、現代の批判的理性主義(特にカール・ポパーのようなもの)を超えた哲学を提唱した。[1]

フランスの哲学者ポール・リクールによれば、批判と結びついた思考様式は、カール・マルクスフリードリヒ・ニーチェジークムント・フロイトの仕事に始まるとされる。西洋文化の解釈において根本的に異なる立場を取っていたものの、この三人は「猜疑の巨匠たち」と呼ばれ、文化の表面の下に潜り込み、より深い構造的な真理を探ろうとする全体化された体系的な理論を主張した。マルクスにとっては、経済的関係が社会生活のあらゆる側面を形作っていた。ニーチェにとっては、受け継がれた道徳やありふれた信念は深く疑わしいものであり、厳しい吟味を必要とするものだった。そしてフロイトにとっては、無意識の心が思考と行動を深く形作っていた。リタ・フェルスキは、リクールにとってこれらの思想家たちは「新しい解釈の技法の創造者」であると指摘している。リクールによる「猜疑の解釈学」の特徴づけは、ポストクリティークの分野において中心的な位置を占めている。

イヴ・コゾフスキー・セジウィックは、リクールの理論を発展させ、「妄想的読み(paranoid reading)」と「修復的読み(reparative reading)」という考えを打ち出した。セジウィックは、批評家に対して、テキスト解釈を駆動することの多い「暴露のドラマ」を捨て去り、代わりにテキストが特定の読者の人生の中で果たしうるさまざまな有益な役割に重点を置くよう呼びかけた。リタ・フェルスキは、セジウィックの修復的読みに関する議論について、「芸術作品を尋問し告発する対象として見るのではなく、慰めと充足を与えてくれるものとして見る姿勢」を求めるものであると指摘している。

ブルーノ・ラトゥールは、影響力の大きい論文「なぜ批判は勢いを失ったのか? 事実の問題から関心の問題へ」の中で、批判はもはや政治的に進歩的な読みを提供できなくなっていると主張する。その理由として、批判の手法が右派の利益によって乗っ取られてしまったことを挙げる。彼は、陰謀論や陰謀的な思考の台頭により、「猜疑の解釈学」に含まれる主要な探究方法は、もはや権力構造を解体するための頼れる手段ではなくなったと述べている。

フェルスキはこのような考えを発展させ、批判に伴う数多くの限界を明らかにした。ポストクリティークを構成する一連の考えを展開するにあたり、リタ・フェルスキは「ブルーノ・ラトゥールの仕事から深く影響を受けた」と語っている。

この三人の思想家の業績は、ポストクリティークの発展にとって決定的に重要な役割を果たした。

原理と実践

ポストクリティークの核心は、批判critiqueに代わる読み方の可能性を探求することにある。この試みは、特定の読者が特定のテキストといかに関わるのかについて、より洗練された説明を求めることから動機づけられている。フェルスキは『Uses of Literature』の中で、「自己とテキストがいかに相互作用するのかについて、より豊かで深い説明が強く求められている」と述べている。

ポストクリティークの実践者たちは、批判を広い意味で定義する。例えばフェルスキは、批判critiqueを「症候的読み、イデオロギー批判、フーコー的な歴史主義」、および「テキストの中から逸脱や抵抗の兆候を探すさまざまな技法」とみなしている。これに対して彼女は、承認(recognition)、魅惑(enchantment)、衝撃(shock)、知識(knowledge)を中心とした、別のさまざまな読み方の枠組みを提示する。そうすることで、彼女は文学の価値を主張しつつ、「陳腐な決まり文句や平板な表現、感傷主義や熱狂(Schwärmerei)に陥る」ことを避けようとする。

同様に、ティモシー・ビュースは、ジュディス・フェタリーの影響力の大きい「抵抗的読み」の理論に対抗するポストクリティーク的な読み方を提起している。ビュースは、ルイ・アルチュセール、ヴァルター・ベンヤミン、アラン・バディウ、ポール・リクール、ジル・ドゥルーズらの思想を用いて、「現在の歴史的状況のもとで最も切迫した要請は、テキストを『逆目に読む』ことではなく、『順目に読む』ことである」と主張する。この順応的な読みの姿勢は、多くの新しい解釈の可能性を開くものである。

トリル・モイは、ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインの哲学を用いて、批判の罠を克服することは可能であると論じる。彼女は「テキストや言語が何かを隠していると考える必要はない」と指摘し、「文学批評における隠されたものや深層に関する主張は空虚である」と述べる。そして代わりに、文学批評家に対して「ページ上の言葉に最大限の注意を払い、見て、観察する意思」に基づいた「文学テキストとの出会い」について書くことを促している。

ダヴィデ・パナジアは、ポストクリティークの方法は、テキスト批評と解釈の喜びを取り戻す手段であると主張する。彼は、フェルスキの「審美的作品は何も隠しておらず、機械の中に幽霊などいない」という主張の真実を認識すれば、文学研究の分野は「批評の喜びを再び獲得できる」と指摘している。

ポストクリティーク的読み方の事例

ポストクリティーク的読み方は、テキストのさまざまな性質に焦点を当て、多様な知識の形態を明らかにすることができる。例えばトビアス・スキヴェレンは、タ・ネヒシ・コーツの『Between the World and Me』(2015年)を、ブルーノ・ラトゥールの言葉を用いて「他者の人生によって『影響を受けることを学ぶ』ための有用な技術」として機能する文学の例として読むことができると論じている。

リタ・フェルスキは『Uses of Literature』の中で、マヌエル・プイグの『蜘蛛女のキス』を「審美的再教育の実践」として読み、C・ナムワリ・サーペルは、ジム・トンプソンの『The Killer Inside Me』(1952年)に対する現象学的でポストクリティーク的な読み方を提示し、純粋にイデオロギー的な解釈の限界を明らかにしている。また、カトリン・レーダーは、T・S・エリオットの『Four Quartets』の分析において、ポストクリティーク的な解釈の形式を実験的に試みている。

実践者

ポストクリティークに関連する現代の文学批評家には、以下の人物がいる。トリル・モイ、リタ・フェルスキ、エリザベス・S・アンカー、マシュー・マリンズ、クリストファー・カスティリア、ラッセル・キャストロノーヴォ、サイモン・デュアリング、ジェニファー・フライスナー、エリック・ハヨット、ヘザー・K・ラヴ、ジョン・マイケル、エレン・ルーニー、C・ナムワリ・サーペル、シャロン・マーカス、トビアス・スキヴェレン、コリン・デイヴィス、ディードレ・リンチ、ティモシー・ビュース、ジョン・シェード、スティーブン・ベスト。

また、この批評様式の重要な先駆者とされる、以前の批評家も多数存在する。フェルスキは、ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインスタンリー・カヴェル、イヴ・コゾフスキー・セジウィック、マイケル・ポランニー、ポール・リクール、ブルーノ・ラトゥール、ジャック・ランシエールを、ポストクリティークの原型的な人物(proto-postcritical figures)として挙げている。

その他に重要な文学的・思想的な先駆者としては、C・S・ルイス、ジョージ・スタイナー、ピエール・バヤール、スーザン・ソンタグ、マニー・ファーバー、ルイ・アルチュセール、ヴァルター・ベンヤミン、アラン・バディウ、ジル・ドゥルーズ、F・R・リーヴィス、ジョン・ベイリー、ジョン・ギロリー、ミシェル・フーコー、テオドール・アドルノ、ミシェル・セール、カルロス・カスタネダ、スティーブン・コナーがいる。

ポストクリティークへの反対意見

ポストクリティークに関連する主張や読み方は、多くの学者から批判を受けている。文学批評家のブルース・ロビンズは、ポストクリティークの多くの側面に異議を唱えている。彼は、この分野で活動する批評家たちの基本的な前提が「恥知らずな戯画化」によって特徴づけられていると主張する。

2017年に『PMLA』に掲載された『The Limits of Critique』への反論では、フェルスキの著作が文学批評の分野における「欠点探し」に圧倒的に重点を置いている点を問題視した。

また別の場所では、「批判とはその幻想の産物にすぎず、文学批評の過去のさまざまな運動を誤って描写し、藁人形論法を展開することによってのみ維持されている」と述べている。

「この純粋な否定性の怪物は、一体どんな現実の風景の中に潜んでいるのか?」とロビンズは問いかける。「本当に一日中ただひたすら問い詰め、神秘を解き、仮面を剥がすことだけをしている文学の教師がいるというのか?」

ロビンズはまた、多くのポストクリティーク派の学者たちの著作に「受動攻撃的な語調」を見出し、「自分の信念、愛着、感情(これらは議論の余地がない)や、神の摂理によって与えられた快適な地位に対する極端な自己満足」が感じられると指摘している。

さらにロビンズは、ポストクリティークの実践は必然的に政治的静寂主義(political quietism)に陥ると主張する。アフリカ系アメリカ人の経験を軽視し、無視していると指摘し、「アフリカ系アメリカ人にとって、パラノイア(妄想的な猜疑)は、体系的な人種的不正義を経験するためのまったく正当な言語である。他の疎外された共同体——クィア、女性、移民、さまざまな人種的マイノリティ——にとっても同様である」と述べている。

同様に、メルヴ・エムレは、リタ・フェルスキをはじめとするポストクリティークに関連する学者たちが、セジウィックの議論を誤解した上で、妄想的読みの危険性と限界を過大評価していると主張する。

彼女は、批判は依然として正当な読み方のスタイルであり、社会的行動を促す力を持っていると論じ、「猜疑的な審美的距離を社会的行動に転換するパフォーマティブな能力を強調する、新しい妄想的読みの概念」を提唱すべきだと主張している。

またいくつかの批評家は、フェルスキがブルーノ・ラトゥールから採用したアクター・ネットワーク理論(ANT)に対しても懐疑的な目を向けている。ロス・ポンコックはこの立場を不必要に反動的であると見なし、エリン・シュライナーは、ポストクリティークの新しい読み方との両立性に疑問を呈している。

同様に、ダン・ワイスコフは、ラトゥールのモデルは批判critiqueに対して「それほど大きな進歩ではない」と指摘し、「このやや奇妙な科学主義を、批評criticismにおける人間的価値の復興を求める彼女の主張と整合させるのは少し難しい」と述べている。

ワイスコフにとって、アクター・ネットワーク理論は、「批評を駆動する根本的な衝動——芸術作品について自分自身で何を思い、何を感じるのかを私的に、独自に解明しようとする行為を記録すること——に逆行する理論的枠組み」の一例である。

エリック・ハヨットは、一部のポストクリティーク的読み方が、「理論の死がかつて破壊した信仰と信念の構造を再構築する新しい救世主」を暗黙のうちに求めていると指摘している。

また別の箇所では、ポストクリティークの最も熱心な擁護者が中年の終身在職権を持つ大学教授である傾向があることを問題視し、「若い頃に強く魅了された方法や思想が空虚な約束に終わったことに中年にして失望した学者は、自分自身に対して深く猜疑的になるべきである。自分の精神・生物学的な立場が、思想の歴史やより広く政治的世界に対する認識を支配していないかと問うべきだ」と警告している。

最後に、批判critiqueがしばしば批判理論と同義であることから、多くの学者は、文学と文化の分析のために設計されたさまざまな理論的枠組みからあまりに急いで退却することに対して警告を発している。

他分野との関連性

マシュー・マリンズは、ポストクリティークが人文科学の継続的な重要性と関連性を理解する上で重要な示唆を与えると主張している。彼は、ポストクリティークが「人文科学がなぜ重要なのかを主張するための肯定的な言語と方法」を提供すると論じ、その方法は文学研究や文化理論に隣接する多くの分野の研究者によって採用されうると指摘している。

文学研究や文化理論での採用に加え、ポストクリティークの実践は他の人文科学の研究者にも取り入れられている。例えばエリン・シュライナーは、思想史を研究する学者が「この新興の『ポスト批判的』感性から学び、それに貢献できる」可能性を検討し、「思想史家が扱うテーマを、ポストクリティークの理論家たちの関心により近づける方法」を提案している。

同様に、キャスリン・フライシュマンは、現代アメリカ政治を理解する上でポストクリティークの考え方が持つ意義を探求し、「ポストクリティークは、現在の政治環境の中で読み、抵抗するための独自の立場を提供する」と主張している。

また、マイテ・マルシアーノは、ポストクリティークがアメリカ研究の分野に与える意義を提案している。

さらに、イスマイル・ムハンマドは、ポストクリティークの実践が視覚芸術、特に芸術批評の分野でどのような応用可能性を持つかを考察している。

ウルフ・シューレンベルクは、著書『Marxism, Pragmatism, and Postmetaphysics』の中で、ポストクリティークが哲学および政治哲学の分野に何をもたらしうるかを探求している。

ポストクリティークは国際関係論の分野にも影響を与えている。ジョナサン・ルーク・オースティンは、ジュネーヴの国際開発高等研究所(Graduate Institute of International and Development Studies)で「Post-Critical IR」というプロジェクトを主導している。このプロジェクトは、国際関係論(IR理論)の主要な失敗——特に「IRが今日のポスト真実時代とその社会的・政治的濫用に寄与している」という批判——に対処するため、ポストクリティーク的読み方のツールを再利用しようとするものである。

オースティンの研究は、特に「批判的伴走(critical companionship)」の概念化、世界政治における批判的修辞様式の性質、物質的・技術的実践が批判的変革にもたらす意義などを中心に展開されている。このポストクリティークの国際関係論への導入は、批判的介入の位置づけ全体について、分野全体にわたる再考を促すきっかけとなった。

ポストクリティーク的読み方のアプローチは、社会学、社会正義研究、社会科学、批判的人種研究、宗教学の分野でも採用されている。

脚注

関連項目

参考文献

外部リンク

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