ポール・ハリス

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生誕 1868年4月19日
ウィスコンシン州ラシーン
死没 (1947-01-27) 1947年1月27日(78歳没)
シカゴ、Beverly
職業 弁護士
配偶者 Jean Thomson
Paul Percy Harris
生誕 1868年4月19日
ウィスコンシン州ラシーン
死没 (1947-01-27) 1947年1月27日(78歳没)
シカゴ、Beverly
職業 弁護士
配偶者 Jean Thomson
George and Cornilia Harris
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ポール・ハリスが印刷された1968年のブラジルの切手
マドリードにあるポール・ハリスの彫刻

ポール・パーシー・ハリス(Paul Percy Harris、1868年4月19日 - 1947年1月27日)はイリノイ州シカゴ弁護士。1905年に国際ロータリーを設立した[1]

ウィスコンシン州で父George、母Corniliaのもと生まれる。夫婦の2番目の子供であった。3歳の時、家庭が落ちぶれ、父方の祖父母であるHowardとPamelaと一緒に住むために兄弟とともにバーモント州へ引っ越した。後に両親についてこう書いている。「GeorgeとCorneliaに対してされたかもしれない全てのことのうち、倹約はもっとも見込みの薄いものだっただろう。2人とも王族のような浪費家であった」

バーモントに住んでいる間、Ludlowのブラック・リバー・アカデミーに通ったが、すぐに追い出されている。Rutlandの中等学校では、いたずら人として知られていた。中等学校卒業後、バーモント大学に入学したが、1886年秘密結社を巻き込んだ事件により退学させられている。1887年の秋にプリンストン大学に入学した。

1888年の春に祖父が死去したために、次の秋には学校に戻らなかった。すぐにアイオワ州デモインに移り、そこで法律事務所の見習いとなった。見習いの期間終了後はアイオワ大学で法を学んだ。1891年6月に法学士を取得した。しかし、その後の5年間は変わった仕事をしていた。新聞の販売員や記者、果物畑での仕事、俳優やカウボーイ、ヨーロッパに向かう家畜を載せた船に乗ることなどである。1896年にシカゴに移り、最終的にはモーガン・パークの近くに住み、亡くなるまでそこで生活した(晩年は夏はミシガンで冬はアラバマで過ごしていたが)[2]

1910年7月2日に地元のネイチャークラブで出会ったスコットランド人のジーン・トムソンと結婚した。彼女はロータリーの支援のためにハリスとともに世界中を旅した。彼女は女性がロータリーの重要な部分となるよう支援し、最終的に全てのロータリークラブが女性を正式な会員として認めるのを導いた。夫婦に子供はいなかった。[3]

専門的な業績に加え、意義のある個人的で精神的な関わりを求めた。毎週日曜日に礼拝に出席したが、1つの集会に身を委ねるのではなく、多くの異なる教会を訪れた。晩年に自身の宗教との関係は自分自身と同じようにラベル付けするのが難しいと発言している。「所属している教会はありません... 自分の分類は簡単ではありません、つまり私の信念は一般的な教会運営への心からの所属に不可欠となる定まった性質のものではありません。...もちろん最近ではラジオで説教が最もよく聞くことができるし、毎週日曜日には3,4の説教が聞こえてきます」[4]

経歴

脚注

外部リンク

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