マイラート・ヤーノシュ
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マイラート・ヤーノシュ(Mailáth János,, 1786年10月3日 ペシュト - 1855年1月3日 シュタルンベルク湖)は、ドイツ語圏で活動したハンガリー人歴史家・文学者。伯爵。自らはドイツ語名のヨハン・マイラート (Johann Graf Mailát) を称した。
フィウメ総督やボルショド県統監の要職にあったマイラート・ヨージェフ(2世)伯爵と、その2番目の妻シャーンドル・アンナ女伯爵の間の子。父親にとっては10番目の子であった。家庭で教育を受けた後、エゲルの大学で哲学を学び、ジェールの王立アカデミー(現セーチェーニ・イシュトヴァーン大学)で法学を学んで学業を修めた。
1808年ウィーンのハンガリー官房所属の文書作成官(コンツィピスト)として採用され、1812年秘書官に昇進。しかし眼病を悪化させ、退官を余儀なくされる。回復後は著述業に専念した。マイラートの母語はドイツ語であり、彼の著作はドイツ語で書かれた。彼がハンガリー語を習得したのは14歳のときだった。彼はドイツ語圏におけるハンガリーの歴史・文化・文学の紹介者を自任していた。多方面にわたる知識を有し、抜群の記憶力の持ち主だったが、彼の著作は常に素人臭い好事家(ディレッタント)の趣味の域を出なかった[1]。
1830年代にはウィーン宮廷の報道官の職を得た。宰相メッテルニヒ侯はマイラートの仕事ぶりを高く買っていたが、それは彼の報道内容が「政府の望む通りのものだから」であった。政治的にも保守派に近い立場であり、1848年革命の際も宮廷の御用記者としての忠実な仕事ぶりから宮廷からまとまった金額の援助金を与えられた[2]。マイラートはハンガリー革命の指導者たちを否定的に描写し、この革命は合法的な為政者に対する反逆であると激しく非難した[3]。
1839年から1848年まで袖珍本シリーズ『イーリス』の編集者を務めた。1844年には1年だけペシュトでハンガリー語新聞『国民新聞 (Nemzeti Ujság)』の編集長も務めた。しかし経済状況が悪化したため、1850年ウィーンからミュンヘンに移住した。1852年バイエルン科学アカデミー会員に迎えられた。
1853年秋、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世と婚約したばかりのバイエルン女公エリーザベトの家庭教師として、その父親マックス公爵に雇われた。マイラートは週3回マックス公爵宮殿を訪れ、まだ15歳の姫君に歴史に関する進講を行った。姫君の母親である公爵夫人ルドヴィカは、自分の家中の侍女たち数人と一緒に娘が受けている歴史学講義に同席し聴講していたが、マイラートが優れた記憶力のおかげで「書物を一つも持って来ずに」授業を行う姿に感銘を受けた[4]。
こうした栄誉ある仕事も経済的苦境からマイラートを救えなかった。彼は1855年1月3日、独身で同居していた娘ヘンリエッテと一緒に、シュタルンベルク湖で心中自殺した。父娘の遺体は翌日1月4日に湖東のミュンジンク町内アマーラント地区の浅瀬で発見された。父娘は一枚の大きなシーツで互いの身体を縛っており、2人の服のポケットは石がいっぱいに詰め込まれていた。近年、オーストリア国立公文書館で発見された内通者による報告書 (Konfidentenbericht) は、マイラート父娘の自殺は未来のオーストリア皇后への進講の金銭的対価が十分に支払われなかったことが原因だったことを仄めかしている[5]。
息子のマイラート・カールマーン・ヨージェフ(1815年 - 1894年)は判事・政治著作家となった。同い年の同族の従兄マイラート・ジェルジ(2世)(1786年 - 1861年)の孫娘マイラート・シャロルタは、1880年代に壮年期の皇后エリーザベトに女官として仕えた。
著作
- Magyarische Gedichte, Cotta, Stuttgart 1825.
- Magyarische Sagen und Märchen, Traßler, Brünn 1825.
- Geschichte der Magyaren, 5 Bände, Tendler, Wien 1828–1831.
- Geschichte der Stadt Wien von der Gründung derselben bis 1830, Tendler, Wien 1832.
- Die Religionswirren in Ungarn, 2 Bände, Manz, Regensburg 1845.
- Geschichte des österreichischen Kaiserstaates, 5 Bände, Perthes, Hamburg 1834–1850.
- Gedrängte Geschichte des österreichischen Kaiserstaates bis auf die neueste Zeit, Meyer, Wien 1851.