マクシミリアン・ツー・ザルム=ザルム

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死去 (1773-09-14) 1773年9月14日(40歳没)
アントウェルペン
配偶者 マリー・ルイーゼ・フォン・ヘッセン=ローテンブルク
マクシミリアン・ツー・ザルム=ザルム
Maximilian zu Salm-Salm
ホーホストラーテン公
在位 1771年7月5日 - 1773年9月14日

出生 (1732-11-28) 1732年11月28日
アンホルト城ドイツ語版
死去 (1773-09-14) 1773年9月14日(40歳没)
アントウェルペン
配偶者 マリー・ルイーゼ・フォン・ヘッセン=ローテンブルク
子女 一覧参照
家名 ザルム=ザルム家
父親 ザルム=ザルム侯ニコラウス・レオポルト
母親 ドロテア・フランツィスカ・アグネス・ツー・ザルム
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マクシミリアン・フリードリヒ・エルンスト・ツー・ザルム=ザルムMaximilian Friedrich Ernst Prinz zu Salm-Salm, 1732年11月28日 - 1773年9月14日)は、ドイツベルギー系の貴族、軍人。第2代ホーホストラーテン英語版公爵。ハプスブルク帝国軍に仕え、帝室侍従、墺領ルクセンブルク総督、皇帝軍陸軍中将の任にあった。同時にオーバーライン・クライスドイツ語版軍の陸軍中将でもあった。

ザルム侯ルートヴィヒ・オットーの長女ドロテア(Dorothea Franziska Agnes Prinzessin zu Salm、1702-1751)とその夫で分家筋のザルム=ホーホストラーテン伯ニコラウス・レオポルトの間の次男として生まれた。1738年、祖父が死ぬと、婿入りしていた父がザルム侯家の所領と資産を相続し、ザルム=ザルム侯位を授けられた。幼くしてマルタ騎士団の騎士、ケルン大司教座聖堂参事会員に名を連ねた。父が名誉連隊長を務める皇帝軍第14歩兵連隊ドイツ語版所属の大尉に任官。1755年に中佐、1758年に大佐、1763年に少将と順調に出世した。1749年、フーベルトゥス勲章英語版、1758年にはマリア・テレジア軍事勲章[1]、1772年には金羊毛勲章を受章している。七年戦争に従軍してコリンの戦い参加時に負傷。1759年、ボヘミア西部アシュでの小規模戦闘に敗れ、プロイセン軍の捕虜となった。

1770年に父が死去、長男である兄ルートヴィヒが聖職禄を保有する聖職者だったため、父は遺言で次男マクシミリアンを後継者に指名していたが、ルートヴィヒは還俗して家督を継ぐことを主張、兄弟の跡目争いは帝国最高法院ドイツ語版での訴訟に発展した。1771年7月5日、パリにて兄弟の和解が成立し、兄ルートヴィヒがザルム=ザルム家の家督と資産を継承したが、マクシミリアンにはホーホストラーテン公爵の称号と所領の相続が認められた。1773年、40歳で死去。1778年、ルートヴィヒが子供のないまま死ぬと、マクシミリアンの息子コンスタンティンが伯父のザルム=ザルム侯位を引き継いだ[2]

子女

1756年3月16日、母の妹クリスティーネとその早世した夫ヘッセン=ローテンブルク方伯世子ヨーゼフの次女マリー・ルイーゼ(Marie Luise Eleonore Landgräfin von Hessen-Rheinfels-Rotenburg、1729–1800)と結婚。叔母クリスティーネと父ニコラウス・レオポルトは、互いの連れ合いを亡くした後の1753年に再婚していた。マクシミリアンとマリー・ルイーゼの夫婦には7人の子が生まれた[3]

  • ニコラウス・レオポルト(1760–1768)
  • コンスタンティン・アレクサンダー・ヨーゼフ・ヨハン・ネポムク(1762–1828) - ザルム=ザルム侯
  • ルートヴィヒ(1765年生)
  • ゲオルク・アダム・フランツ(1766–1834) - オーストリア帝国陸軍騎兵大尉
  • ヴィルヘルム・フロレンティン・フリードリヒ(1769–1824) - ケルン、ストラスブール、シュパイヤー司教座聖堂参事会員
  • ルートヴィヒ・オットー・オスヴァルト(1772–1822) - サルデーニャ陸軍大佐
  • マリア・アンナ・ヘンリエッタ(1773–1776)

参考文献

引用

外部リンク

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