オスナブリュック侯(司教)と称していた頃のハノーファー選帝侯エルンスト・アウグストと、その妻でプファルツ選帝侯フリードリヒ5世の娘であるゾフィーの間の第3子・三男として、オスナブリュック郊外のイーブルク城(ドイツ語版)で生まれた[1]。双子として生まれたため大変な難産で、双子の弟は死産児となり、母の侯夫人も一時は命が危ぶまれた。ケルン大司教(選帝侯)マクシミリアン・ハインリヒ・フォン・バイエルン(ドイツ語版)及びブランデンブルク選帝侯フリードリヒ・ヴィルヘルムに因んで命名され[2]、家族内ではマックス(Max)の愛称で呼ばれた。母の侯夫人ゾフィーはマックスに思慮深さが欠けていることを心配し、マックスが狩猟中の事故で指を2本失ったときは特に彼ばかり気にかけたため、長兄のゲオルク・ルートヴィヒ(ジョージ1世)は母が自分ではなくマックスを後継ぎに推すのではないかと疑った[3]。
ブラウンシュヴァイク=リューネブルク家は伝統的に分割相続制が採られていたが、父は1683年自らを始祖とするハノーファー家に長子相続制を導入し、長兄ゲオルク・ルートヴィヒを唯一の後継者に定めた。マックスを含む次男以下の息子たちの大半がこれに異議を唱えたが、無駄だった[4]。翌1684年、18歳の誕生日を迎えた直後のマックスは、父がヴェネツィア共和国との間で結んだ契約に基づき、大トルコ戦争におけるヴェネツィア・オスマン帝国間紛争(モレア戦争(英語版))のために派遣された2400名のブラウンシュヴァイク分遣隊の名目的な司令官として、ギリシャに送り込まれた。しかし分遣隊の実際の指揮権は熟練の将校たちに握られており、将校たちはヴェネツィアの将軍フランチェスコ・モロジーニの命令に従って動いていた。マックスはお飾りの司令官として、1688年にこの戦争が終わるまでギリシャに留められた[5]。
他の兄弟たちもマックスと同様に大トルコ戦争に従軍しており、1690年にすぐ下の弟カール・フィリップ(1669年 - 1690年)が、翌1691年6月には次兄フリードリヒ・アウグスト(1661年 - 1691年)が戦死した。次兄の死は三男であるマックスがハノーファー家の「第二後継者」に昇格することを意味したが、長子相続制の下では意味がなく、これがマックスには不満だった。マックスは別の弟クリスティアン・ハインリヒ(1671年 - 1703年)と一緒になって、父が採用した長子相続制を認めないと宣言した。そしてハノーファー宮廷の狩猟長官ヨアヒム・フォン・モルトケ(Joachim von Moltke)を後ろ盾として、長子相続制を転覆させる陰謀を巡らせ始めた。この陰謀には同族で父とライバル関係にあったブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公アントン・ウルリヒ、ブランデンブルク=プロイセン宰相エーバーハルト・フォン・ダンケルマンらが協力をしており、さらには母の侯夫人ゾフィーまでもが陰謀の存在を知っていながら、下の息子たち可愛さに沈黙を続けるという有様だった。しかし聡明な妹のブランデンブルク選帝侯夫人ゾフィー・シャルロッテは家族内の陰謀の存在を手紙で父に知らせたので、父エルンスト・アウグストは1691年の年末にはマックスとモルトケを逮捕・拘留し、2人を大逆罪に問うた[3]。モルトケは処刑され、マックスは死刑こそ免れたものの翌1692年に追放処分となり、伯父のリューネブルク侯ゲオルク・ヴィルヘルムの元に短期間滞在した後、ウィーン宮廷に赴いて神聖ローマ皇帝レオポルト1世に仕官を願い出た[3]
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マックスは皇帝軍の陸軍元帥に取り立てられ(1692年)、同時に福音派からローマ・カトリックに宗旨替えした。1701年に始まったスペイン継承戦争ではハノーファー選帝侯領の軍隊を率いて参戦し、1704年のブレンハイムの戦い(第2次ヘヒシュテットの戦い)には、オイゲン公の麾下で騎兵隊の司令官として参加した[5] 。
イングランドでの1701年王位継承法成立に伴い、母ゾフィーがイギリス王位継承者に指名され、王統は母のプロテスタント信徒の子孫に受け継がれると定められた。マックスはすでにカトリックに改宗していたため、母の大勢のカトリックの親族たちと一緒に王位継承権者リストから廃除された。1714年、長兄ゲオルク・ルートヴィヒがジョージ1世としてイギリス王位に就いた際、長兄に生涯従順だった末弟のエルンスト・アウグスト(2世)が英国のヨーク=オールバニ公爵位を授与されたのに対し、同じく存命中の弟だが「裏切り者」のマックスには何の称号も与えられなかった[6][3]。1715年、シャルル=ジョゼフ・ド・ロレーヌ(英語版)の死に伴って行われたオスナブリュック司教選挙で、マックスが次期司教に選出された。しかしヴェストファーレン条約の取り決めによりオスナブリュック司教はカトリックと福音派が交互に務めるルールになっていたため、カトリックが二代続くことは許されず、選挙は無効とされた。後任の司教には弟のエルンスト・アウグスト(2世)が就任した[7]。
マックスは生涯独身だったが、氏名不詳の女性との間にマリア・ゲルフ(1695年 - 1740年)という非嫡出女子を儲けており、この娘はジャン・メイネ(Jean Meinet)と結婚して子をもうけている[8]。