1808年5月3日、マドリード
From Wikipedia, the free encyclopedia
『1808年5月3日、マドリード』(1808ねん5がつ3か、マドリード、西: El tres de mayo de 1808 en Madrid、英: The 3rd of May 1808 in Madrid)は、18-19世紀のスペインの巨匠フランシスコ・デ・ゴヤが1814年にキャンバス上に油彩で描いた絵画である。1814年には王宮 (マドリード) に所蔵されていたが、1834年以前にマドリードのプラド美術館に移され[1]、以来、同美術館に所蔵されている[1][2][3][4][5]。同じくプラド美術館に所蔵されている『1808年5月2日、マドリード』と2点の連作をなしており、『1808年5月2日、マドリード』で描かれている出来事の結果を表した作品である[1][2][3][4][5]。なお、2008年に修復作業が行われ、本来の画面の明るさが取り戻された[1]。
背景
1814年2月に、ゴヤは、「暴君 (ナポレオン) に対する栄誉ある反乱の中でも最も目ざましく英雄的な行為を絵筆によって永年に伝えたい」旨、当時のスペイン摂政府に申し出ている。それは、スペイン独立戦争中のフランス軍占領下におけるゴヤ自身の曖昧な政治的態度に対する批判をかわすことを意図していたが、同年1月に、マドリードの劇場でフランシスコ・パウラ・マルティの悲劇『マドリード、5月2日』が上演され、ゴヤの友人イシドロ・マイケス (『イシドロ・マイケスの肖像』を参照) が主役を演じたことも、おそらくゴヤの申し出に無関係ではない[6]。
結果的に『1808年5月2日、マドリード』と本作『1808年5月3日、マドリード』が、それぞれ1814年の春から秋にかけてフェルナンド7世 (スペイン王) のために制作された[7]。王がナポレオンによって1808年から幽閉されていた[1][8]フランスのバイヨンヌからスペインに帰還することを記念して、摂政会議が発注したもので[1][7]、ゴヤに対する資金援助が与えられたと思われる[7]。
作品

本作と連作をなす『1808年5月2日、マドリード』は、フランス軍の占領に対するマドリードの市民の蜂起を描いたものである。そこには、スペインの愛国者たちがフランスの竜騎兵およびエジプト人親衛隊を襲撃し、戦闘をする場面が描かれている[7]。この民衆蜂起に続き、5月2日の午後から翌5月3日未明にかけて、フランス軍は反乱に加担した者をプラド通り、プリンシペ・ピオの丘、町への入り口をなす外周門など、マドリードの各地で銃殺に処した[3]。
連作の『1808年5月2日、マドリード』と『1808年5月3日、マドリード』は、「動」と「静」の見事な対比をなす[6]。本作は、フランス軍銃殺執行隊によって逮捕された反乱者が銃殺刑に処された場面を描いたものである。描かれている場所はかつてプリンシペ・ピオの丘と考えられていた[1][2][3][4][5]が、現在では背景に見える塔がアルムデナ大聖堂やサン・ニコラス教会のものと思われるため、マドリードの外周門プエルタ・デ・ラ・ベガ (Puerta de la Vega) 付近であると考えられている[1][2][3]。
鋭い明暗の対比と著しい動作の対比によって、場面の悲劇性は頂点に達している[5]。角灯の強い光が冷たく湿った夜気を感じさせ、寂しく暗い荒地に展開される死の光景を照らしだす[3]。処刑する側のフランス軍は、顔を隠し、機械にも似た同一の姿勢をとる匿名の「集団」である[2][6]。フランス兵は、誰一人として市民を直視することができず、全員が目を伏せている[9]。一方、処刑される側の民衆は感情をむき出しにしており[4]、それぞれ異なった表情と姿勢を示す「個」として表されている。彼らは、すでに銃殺され血塗れになって地に斃れている者、今まさに銃殺されんとする者、銃殺を待つ者に分割されている[6]。銃殺を待つ者の列は、重厚な町の門へと続いている[3]。
今まさに処刑されようとしている者たちは、突きつけられた銃に恐怖を感じ慈悲を乞う者、諦めの表情を呈する者、絶望する者など様々に描き分けられている[2][6]。その中央で、大きく広げた両手を上げる白いシャツの男の右手には聖痕が見える[6][9]。これは、イエス・キリストが十字架に磔にされた時の釘の痕である。ゴヤは、この男をキリストになぞらえたと思われる。また、画面左端の薄闇の中に赤子を抱いた女は、聖母子になぞらえられているのであろう[6]。
もう1人注目すべきは、白い服の男の前で両手を握りしめて祈る修道士の姿である。スペイン独立戦争で聖職者が重要な役割を果たしたことは知られているが、この修道士がフランシスコ会の、それももっぱら肉体労働に従事する下級修道士であることは無視できない。ゴヤは1811年6月3日に妻ホセファとともに遺書を作成した際、「遺骸には聖フランチェスコの聖衣をかけること」、教会への献金などを記している[6]。画面に描かれている群衆は、反教会的なナポレオンと戦うカトリック護持のための聖戦の殉教者と見ることもできる[4]。
影響


ゴヤは、『1808年5月3日、マドリード』を描いた際、その構図をバレンシアの版画家ミゲル・ガンボリーノの版画『聖職者の銃殺』を参照したものと考えられる。1812年1月18日にバレンシア近郊のムルビエドロでドミニコ会の5人の聖職者がフランス軍によって銃殺されたが、ガンボリーノの版画はそれを記録して1813年に制作されたものである。フランス軍兵士の位置、両腕を上げた人物と両手を握りしめて祈る人物、そして背後の丘の稜線は両作品に共通している[6]。
一方、後のエドゥアール・マネやパブロ・ピカソといった画家たちは、凄惨な題材を描いた本作から大きな影響を与えている[3]。前者は『マクシミリアン皇帝の処刑』 (マンハイム市立美術館、マンハイム)、後者は『朝鮮の虐殺』 (ピカソ美術館、パリ) を生み出した。しかし、これらの作品に比べて、ゴヤの本作が人間の真実に迫ったものであることは誰も否定できない[6]。