ドミニコ会
カトリック教会の修道会
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説教者兄弟会(せっきょうしゃきょうだいかい、ラテン語: Ordo Fratrum Praedicatorum、略称:O.P.)、通称ドミニコ会は、カトリック教会の男子修道会であり、1216年に教皇ホノリウス3世によって正式に認可された。会員はドミニコ会士(Dominican)と呼ばれ、名前の後に略称「O.P.」を付ける。
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ドミニコ会紋章 | |
| 略称 | OP |
|---|---|
| 設立 | 1206年 |
| 設立者 | ドミニコ |
| 種類 | カトリック教会の修道会 |
| 目的 | キリスト教宣教、他 |
| 重要人物 |
アルベルトゥス・マグヌス トマス・アクィナス シエナのカタリナ ジロラモ・サヴォナローラ |
| ウェブサイト | https://www.op.org/ |
この修道会は13世紀初頭、スペイン出身の聖ドミニコ・デ・グスマン(Domingo de Guzmán)によって、南フランスのラングドック地方でカタリ派(アルビジョワ派)に対抗する目的で設立された。会の根本的な使命は、説教・教育・著作を通じてカトリック信仰を広め守ることにある。
修道院はトマス・アクィナスやアルベルトゥス・マグヌスなど中世最大の神学者を輩出した重要な神学・哲学の研究拠点となった。フランシスコ会と並ぶ代表的な托鉢修道会として、13世紀以降のヨーロッパの宗教・哲学・文化に多大な影響を与えた。
歴史
創設者ドミニコの生涯
創設者ドミニコ・デ・グスマンは1170年頃、スペインのカスティーリャ地方にあるカレルエガ(Caleruega)で生まれた[1]。パレンシアで神学を学んだ後、オスマ大聖堂に付属する参事会に入会し、後に副院長(サブプリオール)となった。
1203年、ドミニコは司教ディエゴ・デ・アセボとともにカスティーリャ王アルフォンソ8世の外交使節としてデンマークへ赴いた。この旅の途中、ラングドック地方を通過した際に、カタリ派の異端が地域社会に深く浸透していることを目の当たりにした[1]。10月にトゥールーズに立ち寄った際、ドミニコは宿泊先の宿主をカトリックに改宗させることに成功したとされる。
カタリ派への宣教活動
使節任務を終えたドミニコは、司教ディエゴとともに教皇インノケンティウス3世から、ラングドック地方でカタリ派に対して宣教していたシトー会修道士たちに合流する許可を得た[1]。
ドミニコはここで、カタリ派の「完全者(ペルフェクティ)」たちが質素な生活を送り、徒歩で二人一組で村々を巡り、わかりやすく説教していることを観察した。この観察から、「貧しさの中で説教する」という独自の宣教方法を確立した。すなわち、説教者は学識を持ちながらも清貧の生活を実践することで、異端の主張に対抗できると考えたのである[2]。
修道会の設立(1205年〜1217年)
1205年、トゥールーズ司教フォルコはドミニコに、ファンジョー近郊のプロイユの修道院を寄贈した。ドミニコはそこにカタリ派から改宗した女性たちのための修道共同体を設立し、以後10年間、この修道院が宣教活動の拠点となった[1]。
1215年春、司教フォルコはドミニコの共同体を「トゥールーズ教区の説教者修道会」として最初の教会認可を与えた。トゥールーズ市民ピエール・セイラが自身の邸宅を提供し、最初の6人の同志が集まった[3]。
1215年、ドミニコは司教フォルコとともにローマに赴き、第4回ラテラノ公会議に際して教皇インノケンティウス3世に修道会認可を申請した。しかし、同公会議で新たな修道会の設立が禁じられていたため、教皇は既存の戒律の採用を命じた。ドミニコは1216年に聖アウグスティヌスの会則を採用し、プレモントレ修道会の規定を参考にした独自の会憲を加えた[1]。
1216年12月22日、教皇ホノリウス3世は勅書「レリギオサム・ヴィタム(Religiosam vitam)」を発布し、ドミニコの共同体を使徒座の保護下に置いた。続いて1217年1月21日、第2の勅書によって修道会は「説教者兄弟会」として正式に承認された。これがドミニコ会の公式創立日とされる[1]。
修道会の拡大
正式認可の後、1217年8月15日、ドミニコは会士たちを各地へ積極的に派遣した。7名をパリへ(勉学・説教・修道院設立のため)、4名をスペインへ、3名をトゥールーズへ、2名をプロイユへ送った[3]。
1218年5月から1219年7月にかけて、ドミニコ自身がイタリア・南フランス・スペインを旅し、多くの会員を迎え入れながら、ボローニャ・リヨン・セゴビア・モンペリエ・バイヨンヌ・リモージュに修道院を設立した[1]。
大学都市であるボローニャとパリの共同体が最も影響力を持つようになった。ドミニコはボローニャ修道院の院長を自ら務め、パリにはオルレアンのレジナルドを院長として送った。レジナルドの死後、後継院長には将来の修道会総長となるザクセンのヨルダヌス(ジョルダーノ・ディ・サッソーニア)が就いた[1]。
1220年5月17日、ボローニャで修道会初の総会(カピトゥルム・ゲネラーレ)が開かれ、説教・学業・清貧・修道院の組織・院長および総会の権限に関する規定が定められた。1221年5月30日の第2回総会では、修道会を管区(プロヴィンキア)に分けることが決定された[1]。
1221年8月6日、ドミニコはボローニャで病没した。この時点で修道会は約300名の会士と20余りの修道院を擁し、フランス・イタリア・スペイン・ドイツ・スカンディナビアにまたがる8管区に組織されていた[1]。
日本での活動
初めて日本を訪れたドミニコ会士は1592年にフィリピンから到来したフアン・コボ であった。彼はフィリピン総督の使節として来日し、豊臣秀吉に謁見した。フィリピン総督の書状を渡したコボは秀吉からの書簡を受け取って帰路についたが、台湾沖で遭難した。
1600年、教皇クレメンス8世はそれまでイエズス会のみに認可されていた日本での宣教活動を正式にすべての修道会に認めた。これを受けたマニラのドミニコ会員5名(フランシスコ・デ・モラレス、トマス・エルナンデス (Tomás Hernández)、アロンソ・デ・メナ (Alonso de Mena)、トマス・デ・スマラガ、フアン・デ・ラ・アバディア (Juan de la Abadía) 修道士)がスペイン船に乗って日本へ渡り、1602年、薩摩の甑島で最初の宣教活動を行った。彼らは薩摩本国へも渡り、甑島と川内の京泊で宣教した。1606年には京泊に「ロザリオの聖母聖堂」を建立したが、1609年にはいると迫害が起こり、宣教師は薩摩から追放された。
1612年に江戸幕府によってキリスト教禁制が公布されると、宣教師の活動は困難になったが、捕縛の危険を顧みずに各地で潜伏しながら信徒たちの世話を続けた。ドミニコ会員たちも各地で活動したが、捕縛され、殉教するものが相次いだ。キリシタン時代に最後に日本に到来したドミニコ会員は1636年に来日したミゲル・デ・アオサラサ (Miguel de Aozaraza) ら3名であったが、彼らは翌年殉教している。ドミニコ会最初の邦人司祭は1619年にマニラで叙階されたヴィセンテ塩塚(1637年に殉教)であった。こうしてドミニコ会員たちは日本から姿を消したが、彼らが日本で組織したロザリオの信心会(組)の信仰は隠れキリシタンの間に受け継がれることになる。
明治以降、ドミニコ会員は再び来日することになる。現在は(日本管区というものはなく)東日本を担当するカナダ管区と西日本を受け持つロザリオ管区で地域を分担して司牧している。
会則と会憲
第4回ラテラノ公会議の要請に従い、ドミニコ会士たちは聖アウグスティヌスに帰せられる「アウグスティヌス会則(Regula Augustini)」を採用した。この会則は本質的に汎用的なものであったため、具体的な生活を規定するために「会憲(Constitutiones)」と呼ばれる規定を加えた。この会憲は高度に民主的な組織構造を持つことで特に著名であり、後の多くの共同体の規約、とりわけ中世のコムーネの憲章のモデルとなったと言われる[2]。
フランシスコ会とともにドミニコ会は12〜13世紀ヨーロッパにおける宗教的・哲学的・文化的刷新を牽引した。両者はしばしば協力しつつも、時に競合関係にもあった[1]。
中世を通じて多くのドミニコ会士がアリストテレスの哲学をキリスト教神学に統合する作業に取り組んだ。最も著名な人物はアルベルトゥス・マグヌスと、その弟子のトマス・アクィナスである。ドミニコ会士はその学識と熱心さから異端審問官に任命されることが多く、「主の犬(Domini canes)」というあだ名で呼ばれた[4]。
錬金術への関心
ドミニコ会士たちは錬金術にも関心を持っていた。これは錬金術が自然哲学の一分野とみなされていたためである[5]。中世初期の錬金術師の中にはフランシスコ会士とドミニコ会士が多く含まれており、ドミニコ会士にとって錬金術は物理的・形而上学的な事象を包括的に説明する自然主義的理論として捉えられていた。フランシスコ会士が錬金術を修道的・観想的生活の延長として捉えたのとは対照的な立場であった[5]。
霊性
説教と観想
ドミニコ会は本質的に「説教者の修道会」であり、霊魂の救いのための説教が最大の使命である。ドミニコ会士の霊性の核心は「観想したことを他者に伝える(Contemplata aliis tradere)」という標語に表されている。会士たちの生活の基盤は、個人的・共同体的な祈り(典礼の時課)と学業にある[1]。
説教の中心に置かれるのは「贖い主キリスト」の姿であり、この霊性はキリスト中心的な性格を持つ。ヴィア・クルチス(十字架の道行き)の普及に貢献した主要な人物として、コルドバのドミニコ会士アルバロ・ダ・コルドバが挙げられる。彼は同慣行をコルドバ修道院に導入した。またトマス・アクィナスはコルプス・ドミニ(聖体節)の典礼聖務日課を作曲したことでも知られる[1]。
マリア崇敬とロザリオ
マリア崇敬もドミニコ会霊性の重要な柱である。ロザリオの普及に対するドミニコ会士の貢献は特に大きく、ラ・ロシュのアラヌスやヤーコプ・シュプレンガーが主要な推進者となった[1]。
ドミニコ会出身の教皇ピウス5世の時代には、1571年のレパントの海戦でのオスマン帝国に対する勝利がロザリオの執り成しによるものとされ、この祈りの普及に大きな弾みが加わった[6]。
その他の信心
ドミニコ会士マリー=ジャン=ジョゼフ・ラタストは、ミサの典文に聖ヨセフの名を加えることを推進し、教皇ピウス9世が聖ヨセフを普遍教会の守護聖人として宣言することに貢献した。また、11月2日(死者の日)に3つのミサを捧げる慣行は、15世紀のバレンシアのドミニコ会修道院に起源を持ち、後にカトリック教会全体の慣行となった[2]。
修道会の統治
修道会の最高長は「修道会総長(Maestro Generale)」であり、行政権を握る。総長は9年任期(1804年以前は終身制)で総会(Capitulum Generale)によって選出される。総長は総会を主宰するが、その決定に拘束され、総会によって罷免されうる[1]。
総会は修道会全体の代表者で構成される立法機関であり、3年ごとに召集される。各管区から3名の代表(管区長・評議員・その同伴者)が参加する。
修道会総長の本部(クリア・ジェネラリツィア)は、ローマのアヴェンティーノの丘にあるサンタ・サビーナ聖堂に置かれている[7]。
行政上、修道会は「管区(Provincia)」に分けられ、各管区は4年任期で選出される管区長が統括する。各修道院は3年任期の修道院長(プリオル)が率いる。
紋章
修道服
主な活動と教育機関
使徒的活動
ドミニコ会士は主に「説教」の使命を担っており、これは言葉によるものだけでなく著作によるものも含む。具体的には、民衆ミッション・霊的退修(リトリート)・宗教教育・社会的コミュニケーション・教育・学術研究・出版などに携わる[9]。
主要教育・研究機関
- 聖トマス・アクィナス教皇立大学(アンジェリクム):1580年にローマに設立され、1963年に教皇ヨハネ23世によって教皇立大学の称号が与えられた。神学・哲学・カノン法・社会科学の学部を持つ。
- エルサレム聖書学院(エコール・ビブリック):1890年にマリー=ジョゼフ・ラグランジュの主導でエルサレムに設立され、聖書研究の国際的拠点となっている。
20世紀後半には、ドミニコ会の神学者マリー=ドミニク・シェニュ、イヴ・コンガール、エドワード・スヒルベークスらが第2バチカン公会議に積極的に参加し、重要な貢献をした[1]。
ドミニコ会家族
広義のドミニコ会家族は、修道士(第1会)・修道女(第2会)・在俗会員(第3会)から構成されている。
修道女(第2会)
1205年にドミニコが設立したプロイユのノートルダム修道院が、ドミニコ会最初の女子共同体である。ドミニコ会修道女は厳格な修道院生活(クラウズーラ)を営み、観想生活に専念する[10]。
在俗会員(第3会)
在俗で修道会と結びつきたいと望む信徒のための会則は、1285年に総長ムニョ・デ・サモラによって制定された。在俗会員は「信仰の友愛会(Fraternità Laicali Domenicane)」に組織される。著名な会員として、ポンペイのロザリオ聖堂を設立したバルトロ・ロンゴ、ピエル・ジョルジョ・フラッサーティ、政治家のジョルジョ・ラ・ピラやアルド・モーロらがいる[11]。
著名なドミニコ会士
- オパヴァのマルティン - 13世紀の年代記作家。
- アルベルトゥス・マグヌス(聖アルベルトゥス) - 13世紀の神学者、教会博士
- トマス・アクィナス - 13世紀の神学者・哲学者、教会博士、聖人。主著に『神学大全』。
- インノケンティウス5世 - 13世紀に在位した、ドミニコ会員初のローマ教皇。
- マイスター・エックハルト - 13-14世紀ドイツの神学者、神秘主義者。
- ベネディクトゥス11世 - 14世紀に在位したローマ教皇。
- シエナのカタリナ - 14世紀の在俗修道女(女子信徒会)。イタリアの守護聖人。
- フラ・アンジェリコ - 15世紀前半の画家。
- ヴィテルボのアンニウス - 15世紀イタリアの修道士。偽書制作者として知られる。
- ハインリヒ・クラーメル - 15世紀ドイツの宗教裁判官。主著『魔女に与える鉄槌』。
- トマス・デ・トルケマダ - 15世紀スペインの異端審問所長官。在職18年間に約8000人を焚刑に処した。
- ジロラモ・サヴォナローラ - 15世紀末のフィレンツェで神権政治を行った。
- ジョルダーノ・ブルーノ - 16世紀の哲学者。地動説を擁護し火刑に処せられた。
- ピウス5世 - 16世紀に在位したローマ教皇。カトリック改革を推進。聖人。
- トマソ・カンパネッラ - 16-17世紀イタリアの哲学者。
- バルトロメ・デ・ラス・カサス - 15-16世紀スペインの司祭。主著『インディアスの破壊についての簡潔な報告』。
- ルイス・デ・グラナダ - 16世紀にスペイン、ポルトガル両国で活躍した神学者。主著『罪人のための手引き』。
- リマのローザ - 16-17世紀ペルーの修道女。ラテン・アメリカ初の聖人。
- マルティン・デ・ポレス - 16-17世紀ペルーの修道士。聖人。
- トマス西と15殉教者 - 17世紀初頭に殉教した日本のドミニコ会司祭、修道者と信徒。長崎十六聖人とも。
- ディエゴ・コリャード - 17世紀初頭に日本に潜入した宣教師。主著『日本文典』。
- ホアキン・ロヨ - 18世紀、中国で活動した神父。1746年7月3日に逮捕され[12]、1748年10月28日に獄死。1893年5月14日に列聖された[13]。
- ベネディクトゥス13世 - 18世紀に在位したローマ教皇。
- イヴ・コンガール - 20世紀フランスの神学者。第2バチカン公会議で主導的役割を果たす。
- グスタボ・グティエレス - 20世紀ペルー生まれの神学者。解放の神学の提唱者の1人。
- 宮本久雄 - 20世紀生まれの神学者。日本人初の名誉称号 (Sacrae Theologiae Magister) を授与された。