マニラ王国
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マニラ王国(マニラおうこく、英語: Kingdom of Maynila、マレー語: Kota Seludong、ジャウィ文字: كوتا سلودوڠ)は、かつて現在のフィリピンの首都マニラに存在したとされる王国・都市国家である[1]。パシッグ川の南部周辺に広範囲に存在し、海洋貿易により16世紀ごろに最盛期を迎えた。
| フィリピンの歴史 | |||||||||||||||||||||||||||||
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先史時代 - 900年
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植民地時代(1565年 - 1946年)
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フィリピン ポータル | |||||||||||||||||||||||||||||
歴史
ルソン島のイントラムロスに中心を置いたマニラ王国は、建国当初はブルネイ帝国の属国であった。1500年代初頭にポルトガル人が、マラッカ王国を征服する前に立ち寄った中国とマラッカの間にある貿易国家を「ルソニア」(Luçonia)または「ルソン」(Luçon)と記しており、このころまでには王国は東南アジアにおける主要な交易拠点を安定させたとされる。
16世紀初めにブルネイ帝国によって建国された国である[2]。16世紀ごろまでに、マニラ王国はブルネイ帝国との広範な政治的結束や中国の明王朝、また日本の商人との広範な貿易関係を有していた。同時期にパシッグ川北部周辺に位置したトンド王国と共に、中国製品のフィリピン諸島内取引において二極支配を確立させた。
トンド王国とは領土問題を抱えており、度々領土をめぐって紛争を引き起こした。両国はフィリピンにおける二大有力交易国家として度々激しい対立を繰り返した。一方で、建国当初からマニラ王国が属国として服属していたブルネイ帝国、またスールー諸島からボルネオ島の広範囲を支配していたスールー王国、インドネシアに存在したテルナテ王国とは長らく友好関係を維持していた。
明との関係も友好的であったとされる。明は海禁政策を施行したことにより他国との海上貿易を閉ざしたものの、マニラ王国との貿易は公式に貢納制度を装って福州の港を通じて継続することが許可されたほど、重要で緊密な通商関係にあった。貿易の拡大に伴い、広州や泉州の港からもより広範な秘密貿易が中国製品をマニラ王国にもたらすこととなった。
日本とも長らく関係を有していたとされており、関係の始まりは室町時代に遡る。当時も多くの日本の商人や商人がルソンに定住しており、特にマニラの郊外であるディラオ地区では、1600年ごろに3,000人の日本人から構成される日本町が存在した。
16世紀後半にはスペインによる王国への侵略が始まり、交易拠点であった王国の権威は衰退することとなった。後に初代のスペイン領フィリピン総督に就任するミゲル・ロペス・デ・レガスピは、1565年にフィリピン諸島を征服した。レガスピの率いるスペイン軍がマニラ市内に侵攻し、彼は同地域をスペインの副王領であるヌエバ・エスパーニャの領土として主張した。両国の対立は深まり、1570年のマニラの戦いによってスペインとの戦闘状態に発展した。この戦いに敗北したマニラ王国は、スペインや隣接するトンド王国の指導者による広範囲に及ぶ交渉の末、1571年に正式にスペイン領として編入(スペイン領東インド)されることとなり、マニラ王国は消滅した。