マラッカ事件
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事件
影響
羽生連隊では、第3大隊をマラッカから撤収させ、代りに第1大隊の一部を派遣した[4]。英軍の命令で、第1大隊長以下100名が治安の維持に当り、その余の兵力はマラッカ市から20キロの外に撤退することになり、第1大隊は1945年9月9日夜にマラッカに入った[7]。第1大隊の進駐時には、事件をおそれて華僑の店はほとんどが大戸を下ろし、終戦後に林立した赤旗や青天白日旗も見えず、しんと静まり返っていたが、数日後には店舗も再開し始め、明るさが戻ってきた、とされている[8]。
第3大隊はクアラルンプール、セレンバン、ゲマス、ジュアセなどに分かれて作業に従事し、大隊本部は1945年12月にジュアセからゲマスへ移った[9]。亀沢大尉の後任として、大隊長には幹部候補生出の水口賢治少佐が着任した[9]。
裁判
殺害を指揮したのは第3大隊の大隊長・亀沢大尉とマラッカ憲兵隊の大本少尉で、この2人と、第3大隊の矢頭俊一中尉以下9人の関係者が戦犯容疑で英軍に召喚された[10]。
なお、事件発生後、第29軍の憲兵隊長・児島正範少将は、マラッカ憲兵隊の大本少尉らを日本軍の軍法会議に付そうとしたが、(英軍の戦犯裁判の開始まで日時がなかったため)軍法会議にはかけられなかった[5]。
1946年7月6日にイギリス軍クアラルンプール裁判で、大本少尉と亀沢大尉に絞首刑、ほか9人に10年の有期刑の判決が下った[11]。確認の結果、2人は判決通り死刑とされ、矢頭中尉は5年の有期刑、他の8人は無罪に減刑された[12]。
2人の絞首刑は1946年9月5日に執行された[11]。