マラッカ包囲戦 (1568年)

From Wikipedia, the free encyclopedia

結果 ポルトガルの勝利
マラッカ包囲戦

ポルトガルの要塞とマラッカ市(1630年)
1568年
場所ポルトガル領マラッカ、現マレーシアムラカ
結果 ポルトガルの勝利
衝突した勢力
ポルトガル王国
ジョホール州の旗 ジョホール王国
アチェ王国の旗 アチェ王国
カリニャマット王国英語版
オスマン帝国
指揮官
レオニス・ペレイラ アチェ王国の旗 アラーウッディーン・アル=カハール英語版
戦力
不明 1万5千人[1]
オスマン砲兵400人[1]
船300隻[1]
大砲200門[1]

1568年マラッカ包囲戦(マラッカほういせん、英語: Siege of Malacca)は、アチェ王国スルタンアラーウッディーン・アル=カハール英語版によるポルトガル領マラッカへの攻撃。

マラッカは1511年のアフォンソ・デ・アルブケルケによる征服以降、ポルトガルの拠点となっていた[2][3]

この攻撃はイスラム教諸国が同盟し、ポルトガルをマラッカやインドの海岸から追い出そうとしたことに起因する[4]

経過

マラッカから遠く西にあるオスマン帝国も砲兵の援軍をアチェに送ったが、キプロス侵攻とアデンの反乱鎮圧を同時進行で戦わなければならなかったため大規模な援軍は派遣できなかった[4]

アラーウッディーンの軍には1万5千の歩兵、オスマン商人、そしてガレー船の大艦隊が含まれていた[2][3][5][6][7]。マラッカ市はドン・レオニス・ペレイラおよび彼を支持したジョホール王国の援軍の奮戦により侵攻から守られた[2]。しかし、アチェ王国によるマラッカ攻撃はそれ以降も続き、1570年には早くも再び包囲された[2]

その後

このマラッカへの攻撃はポルトガル王国を弱体化させた。1570年代、モルッカのスルタンたちはポルトガル人を香料諸島から追い出した[4]

ポルトガル・ジョホール・アチェの3者はその後も和戦を繰り返したが、マラッカは1641年にオランダとジョホールが連合して同地を占領する(マラッカ包囲戦 (1641年)英語版)までポルトガルの支配下にありつづけた[8]

関連項目

脚注

参考文献

Related Articles

Wikiwand AI