マリア・チェレステ
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マリア・チェレステ | |
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マリア・チェレステとされる肖像画 | |
| 生誕 |
ヴィルジーニア・ガンバ 1600年8月16日 ヴェネツィア共和国パドヴァ |
| 死没 |
1634年4月2日(33歳没) トスカーナ大公国フィレンツェ |
| 職業 | カトリック教会 修道女 |
| 親戚 |
ガリレオ・ガリレイ (父) |
マリア・チェレステ(Maria Celeste、1600年8月16日-1634年4月2日)は、イタリアの修道女。出生名ヴィルジーニア・ガンバ。科学者ガリレオ・ガリレイと、マリナ・ガンバの非嫡出子である[1]。1623年から1634年にかけて、父ガリレオにあてて修道院から手紙を送った。ガリレオ死後に124通が発見され、後に出版された。
1600年8月16日にパドヴァで生まれ、父ガリレオの妹ヴィルジーニア・ガリレイ・ランドゥッチにちなんでヴィルジーニアと名付けられた[2][3]。3人兄弟の長女であり、妹はリヴィア、弟はヴィンチェンツィオ。母はマリナ・ガンバであるが、ガリレオとの婚姻届けは出さず、3人とも非嫡出子であった。ガリレオがガンバと結婚しなかったのは、社会的な地位に差があったことが理由の1つとして考えられている[4][5]。
ヴィルジーニアは生まれてすぐの8月21日に洗礼を受けた[6]。9歳の時に祖母とともにフィレンツェに引越し、翌年には父ガリレオと妹リヴィアもフィレンツェに移り住み、4人で暮らした[2][7]。
非嫡出子のためヴィルジーニアとリヴィアは結婚するには高額の持参金が必要とされていたが、ガリレオにはそれを用意することができなかった[4]。そのため、ガリレオはヴィルジーニアが13歳になってすぐのときに、ヴィルジーニアとリヴィアをサン・マッテーオ修道院に入れた[4]。ガリレオが2人を修道院に入れたのは、金銭面の他に、当時のガリレオが発表していた研究が一部で批判を受けていたために、娘たちをこうした世俗から切り離したところに入れようとしたことも理由として考えられている[8]。2人はまだ若年のため、修道院に入れるには特別な許可が必要であったが、ガリレオの保護者であるフランチェスコ・マリア・デル・モンテ枢機卿によって許可を得ることができた。
ヴィルジーニアは16歳になった1616年10月4日に修道女となった[4]。そしてマリア・チェレステという修道女名を選んだ。この名前は聖母マリアと、父が愛する天文学から採ったものである。修道会の規則により修道女になると修道院の外に出ることが許されないため、マリア・チェレステは以降の人生を修道院の中で過ごすことになった[9]。
サン・マッテーオ修道院は資金がなく、マリア・チェレステを含む修道女は貧しい生活を送った[10]。そのような中でマリア・チェレステは、クララ会の修道女にとってだけでなく、父親にとっても支えとなった。マリア・チェレステはマッテーオ修道院の薬剤師を務め、修道女の看護にあたった[11](自身も虚弱体質だった[12])。また、音楽の才能に恵まれていたため、修道院内で聖歌隊を指揮して見習いの修道女たちにグレゴリオ聖歌を教えた[11]。そのかたわら、父親に病気の治療として治療薬を調合して送った[2]。マリア・チェレステは修道院への援助をよく父親に求め、父の影響力により教会を支えた。ガリレオは窓の修理や時計の調整事業にかかわっている[13]。また、父親と弟ヴィンチェンツィオを仲介する役割も担っていた[14]。ヴィンチェンツィオが1629年に結婚するときは、祝宴の食事の一部を用意し、父親の出費を抑えようとした[15]。
1631年から1642年に亡くなるまで、ガリレオは修道院近くのイル・ジョイエーロと言う名の別荘に住み、修道院を頻繁に訪れた[10]。
1633年、異端の疑いでガリレオは異端審問にかけられた。ガリレオは地動説の考えを撤回させられ、終身の軟禁生活を強いられた。このときガリレオには、7つの悔罪詩篇を毎週唱えることを課されたが、マリア・チェレステはこの役割を自らが代わりに引き受けることを教会に申し出て実行に移した[16][17]。
ガリレオがアルチェトリのイル・ジョイエーロに戻って間もなく、マリア・チェレステは赤痢にかかって重体となった。ガリレオは修道院に毎日通ったが、病状は回復せず、1634年4月2日に33歳で死去した[18]。
マリア・チェレステの死によってガリレオは悲嘆にくれた。ガリレオはトスカナ大使ニッコリーニの夫人カテリーナ、友人のアスカニオ・ピッコローミニ、ヴィンチェンツィオの妻の兄にあたるジェリ・ボッキネリから慰めの言葉を受けている。その中でマリア・チェレステについて、カテリーナは「修道女マリア・チェレステの死はいまだに私の胸をかきむしります。極めて高潔な性質と、貴殿から受け継いだ様々な特性のゆえに私が彼女に抱いていた愛の深さによって」、ピッコローミニは「私は昔から彼女がこの世で貴殿が持つ最も善きものであることを知っていました。そして彼女が単なる父性愛を超えたものを受けるに値する、極めて高い人格的価値の持ち主であったことも」、ボッキネリは「彼女と対面して、心が洗われ、感動し、悔恨して去らなかったことは一度もありません」と評している[19]。
ガリレオはマリア・チェレステを、「美しい心を持ち、並外れて親切で、だれよりも私に優しく接してくれた」と述べている[20][21]。
手紙
ガリレオの死後、マリア・チェレステが1623年から1633年にかけて書いた手紙124通が、ガリレオの書類の中から発見された。ガリレオからの返信も、マリア・チェレステは生前残しておき度々読み返していたが、現在は失われている[19]。マリア・チェレステの手紙は出版された。
- ヴァージニア・ガリレイLettere al padre ( ウィキソース[22])
- ガリレオ、マリア・チェレステ、デーヴァ・ソベル. Letters to Father: Suor Maria Celeste to Galileo, 1623-1633. New York: Walker & Co., 2001 Also online
手紙には、父親への愛情と気遣いが表れており、ほぼすべての手紙で父の健康についての記述がみられる[4]。修道院で作った菓子を送ったことなども書かれている[4]。ガリレオが修道院に送った援助に対する感謝の言葉も多く書かれている[23]。
手紙からは教養の高さもうかがうことができ、ガリレオの科学的研究にも関心を持っていたことがわかる[4]。ラテン語を読むことはできなかったが、イタリア語で書かれたガリレオの『偽金鑑識官』が出版された際には1冊を求めた[4][24]。望遠鏡を送ってくれるよう求めたこともあった[2]。ガリレオの著書の原稿のいくつかを準備したとの記録もある[2][25]。
影響
- 国際天文学連合(IAU)は金星のクレーターにマリア・チェレステの名をつけている[26]。
- 欧州宇宙機関(ESA)は2025年、ガリレオ衛星測位システムを補完する低軌道衛星コンステレーションに、チェレステの名をつけた[27]。