ヴィート侯ヴィルヘルムの次男でプロイセン陸軍の騎兵大尉だったヴィート侯子ヴィルヘルムと、その妻ゾフィー(シェーンブルク=ヴァルデンブルク侯オットー・ヴィクトル2世(ドイツ語版)の妹)の間の第1子、長女として生まれた。全名はマリー・エレオノーレ・エリーザベト・ツェツィーリエ・マティルデ・ルツィエ・ツー・ヴィート(Marie Eleonore Elisabeth Cecilie Mathilde Lucie Prinzessin zu Wied)。母はポツダムでは有力なサロンの女主人であり、そのサロンは同市の上流階級・文人の中心的な社交場の1つだった。1913年10月、父が新生アルバニア公国の元首に選出され、一家は1914年3月に公国の首都ドゥラスに入った。しかし第1次世界大戦の勃発後まもなく父は公位を保つことが出来なくなり、一家は同年9月3日にアルバニアを離れた[1]。
ミュンヘンの女子中等教育学校を卒業後[1]、母の反対を押し切り、シュトゥットガルトのホーエンハイム大学(ドイツ語版)農学部に入学する。1年ほどで同大学を去ると、ベルリン大学とボン大学で国民経済学および政治学を学んだ。非常に優秀な成績ゆえに奨学金を得て、アメリカ合衆国オハイオ州のオーバリン大学に1年間給費生として留学した。さらに滞在期間を延長し、各地を旅行して様々な人々と関わりを持ったことは、彼女にとって見識を広げる大きな経験となった。1934年、ナチス・ドイツの迫害を逃れてアメリカ合衆国に入国した同郷の法学者ヨアヒム・フォン・エルベ(ドイツ語版)(パウル・メンデルスゾーン=バルトルディの曾孫)のために紹介状を書き、エルベの就職を斡旋した。1935年にディプロマを取得し、1937年11月13日に「magna cum laude(5等級中の2等級)」の成績で法学・国家学学士号を授与された。学位論文のテーマは「南米における外国資本;経済恐慌の発生事例とそれに対する有効な経済政策の試みについて(Das Auslandskapital in Südamerika. Ein Sonderfall der Entstehung von kapitalistischen Krisen und den Möglichkeiten und Versuche einer ausgleichenden Wirtschaftspolitik.)」であった[1]。
Das Auslandskapital in Südamerika. Waldenburg/Sachsen 1937 (gleichzeitig Dissertation an der Universität zu Berlin)
引用
1 2 3 4 5 6 7 8 Bernd Willscheid: Manina zu Wied (1909–1956). In: Frauenbüro Neuwied (Hrsg.): Von Frau zu Frau. Teil II, Verlag Peter Kehrein, 1995, ISBN 3-9803266-5-9, S. 82–92