スモレンスクの豊かな家庭に生まれた。医学を学ぶためにサンクトペテルブルクにでるが医学校を中退して、美術に転じ、1903年から帝国美術アカデミーに入学した。
1905年にパリに移り、ロシアの新聞の特派員として働きなから、私立の美術学校Académie de La Paletでソニア・ドローネーに学び、アンリ・マティス(1869–1954)が開いていた美術学校でオルガ・メーアソン(Olga Meerson)に学んだ。1911年にモンパルナスに美術学校(Academie Russe)を設立し、その後 Academie Vassilieff と改名した[1]。ヴァシリエフに学んだ学生にはニーナ・ハムネットや、アレクサンドラ・ポヴォリナ(Alexandra Povòrina)、オシップ・ザッキンらがいた。モンパルナスで活動していたジョルジュ・ブラックやフェルナン・レジェ、ジャン・コクトー、フアン・グリス、パブロ・ピカソ、アメデオ・モディリアーニといった有名な芸術家たちと知り合い[2]、サロン・ドートンヌやアンデパンダン展に作品を出展した。1909年から1914年の間に、スカンジナビアやルーマニア、ポーランド、ロシアへ何度か旅して、新たな絵画のインスピレーションを得た。
1915年に未来派などの展覧会に出展するためにロシアに帰国し、展覧会「 Last Futurist Exhibition of Paintings 0,10 (Последняя Футуристическая выставка картин 0,10)」にも出展した。
第一次世界大戦中はフランス赤十字の活動に参加し、1915年に貧しい芸術家たちが集まれるるように安く食事を提供する民間食堂を開設した。
1920年代にバレエの舞台美術を手がけ、ハンガリーの画家で人形遣いのゲーザ・ブラットナー (Géza Blattner)の人形劇団の人形制作や、衣装や家具のデザインを行った。モンパルナスのカフェ、「ラ・クーポール(La Coupole)」の装飾画も描いた。
1930年にリヴィエラに移り、第二次世界大戦中はそこで暮らし、1946年にパリに戻った。1957年に、ノジャン=シュル=マルヌの全国芸術家老人ホーム(Maison nationale de retraite des artistes)で暮らし、そこで亡くなった。1993年に、かつてのアトリエが売却されようとした時、公的機関に買い上げられ1998年にモンパルナス美術館(musée du Montparnasse)が作られたが後に閉鎖され「Archives of Women Artists, Research and Exhibitions 」という協会の本部が置かれている。