マルクス・アントニウス・クレティクス
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父は、執政官(紀元前99年)、ケンソル(紀元前97年)を歴任し、雄弁家(Orator)と称されたマルクス・アントニウス・オラトルで、紀元前63年にマルクス・トゥッリウス・キケロと同僚の執政官となったガイウス・アントニウス・ヒュブリダは弟に当る。生年ははっきりしないが、プラエトル(法務官=就任資格が40歳以上)への就任年から逆算した前115年頃とされる。
父アントニウス・オラトルはルキウス・コルネリウス・スッラ派に属していたため、ガイウス・マリウスに殺害された[2]。なお、当記事のアントニウスのその間の動向ははっきりしない。
略歴
紀元前74年にプラエトルに選出され、恐らくプロコンスル権限(pro consule)の無期限インペリウム(指揮権、imperium infinitum)を地中海一帯を荒らす海賊掃討の目的で付与されたが、初年度は西方にしか手が回らなかった[3]。
翌紀元前73年、シキリアに滞在した彼は、クレタ島の海賊退治の準備を進めたが[4]、このとき部下のレガトゥスの一人がガイウス・ユリウス・カエサルだった可能性がある[5]。紀元前72年にはプロコンスルとしてギリシアで補給物資の集積を行った[6]。

前72年から翌紀元前71年にかけて軍事行動を行ったクレティクスは海賊に敗北し、条約を結ばざるを得なくなった。この後すぐ、ローマ市へ戻ることなく亡くなった[7]。後にクレタ人はこの条約見直しのため、元老院に使者を派遣している[8]。
この敗北によりローマ市民からアントニウスはクレティクス(クレタの、本来は「クレタ征服者」につけられる)と嘲りを込めて称された。