マルグリット・ロン

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生誕 (1874-11-13) 1874年11月13日
死没 (1966-02-13) 1966年2月13日(91歳没)
フランスの旗 フランスパリ
マルグリット・ロン
基本情報
生誕 (1874-11-13) 1874年11月13日
出身地 フランスの旗 フランスガール県ニーム
死没 (1966-02-13) 1966年2月13日(91歳没)
フランスの旗 フランスパリ
学歴 パリ音楽院
ジャンル クラシック音楽
職業 ピアニスト
担当楽器 ピアノ

マルグリット・ロン(Marguerite Long, 1874年11月13日 - 1966年2月13日)は20世紀前半のフランスを代表するピアニストピアノ教育者。

1874年11月13日、フランス南部のガール県ニームに生まれる[1]。ニーム音楽院で8歳上の姉クレールからピアノの指導を受けるが、当時視学官をしていたテオドール・デュボワ(のちのパリ音楽院院長)の勧めで1889年にパリ音楽院入学。

1891年パリ音楽院ピアノ科を一等賞で卒業。名教師として名高いアントワーヌ=フランソワ・マルモンテル1816年 - 1898年)の息子アントナン・マルモンテルフランス語版1850年 - 1907年)の指導を受けつつ演奏活動を開始する。

1906年、大のフォーレ・ファンであった音楽学者のジョゼフ・ド・マルリアーヴと結婚。新婚旅行の最中に呼び戻され、パリ音楽院の予備科講師となる。

1907年、急逝した師アントナン・マルモンテルのクラスを継ごうと高等科教授に立候補したが、当時の院長であったフォーレ(院長在職期間、1905年 - 1920年)はロンより3歳若いアルフレッド・コルトーをどうしても教授にしたかったため、彼女に次の機会には必ず教授に推薦するからと手紙で約束し、引き下がらせた。ところが、1913年に約束の教授の地位が与えられなかったことにロンは立腹、遂にマルリアーヴ夫妻はフォーレと仲たがいする結果となる。

1914年8月、夫マルリアーヴが第一次世界大戦に従軍し、8月24日戦死。悲しみに打ちのめされステージから遠ざかったが、1917年に演奏活動を再開させる。1919年4月にはモーリス・ラヴェルが戦没者に捧げた組曲クープランの墓』(第6曲「トッカータ」が亡き夫に捧げられている)を初演。

1920年ルイ・ディエメの死後、その後任として音楽院高等科正教授に就任。同年、自身の音楽学校を創設し、これが1941年にはロン=ティボー音楽学校となる。

1932年1月、自身に献呈されたラヴェルの『ピアノ協奏曲 ト長調』を初演。作曲者とともにこの協奏曲を携え、ヨーロッパ中を演奏旅行する。

1935年、フォーレとは仲たがいをしたというものの、アンリ・ド=ジュヴネル夫人主宰の「ガブリエル・フォーレ協会」設立に助力。 1937年から1939年にはフォーレ協会主催でフォーレ・コンクールを開催。

1943年、ヴァイオリニストのジャック・ティボーとともに第1回ロン=ティボー国際コンクールを開催。このコンクールは現在でも行われ、若手音楽家の登龍門となっている。

1966年2月13日、パリにて永眠。91歳没。葬列でラヴェルの『ダフニスとクロエ』が演奏される中、故郷ニームへと帰った。

レパートリー・演奏

古典派のモーツァルトベートーヴェン、ロマン派のショパンリストなどからドビュッシーフォーレラヴェルなどのフランス近代音楽まで幅広い。当時の作曲家たちとの親交は厚く、フォーレの『即興曲第4番』、アルベニスの『ナヴァーラ』、ラヴェルの『ピアノ協奏曲 ト長調』などを献呈されている。

教育者として

フランスの伝統的ピアニズムを受け継いでいるという自負から教育者としても熱心に国際マスタークラスの活動を行なった。弟子としてジャック・フェヴリエジャン・ドワイヤンピエール・バルビゼサンソン・フランソワフィリップ・アントルモン、日本人の園田高弘らの名が挙げられる。

著作・その他

栄誉

脚注

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