マルゲリータ・パレオーロガ
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| マルゲリータ・パレオーロガ Margherita Paleologa | |
|---|---|
| マントヴァ公妃 | |
|
マルゲリータ・パレオーロガとされる肖像画(ジュリオ・ロマーノ画、1531年頃、イギリス王室コレクション) | |
| 在位 | 1531年 - 1540年 |
| 別称号 | モンフェッラート女侯:1533年 - 1536年 |
| 出生 |
1510年8月11日 |
| 死去 |
1566年12月28日(56歳没) |
| 結婚 | 1531年10月 |
| 配偶者 | フェデリーコ2世・ゴンザーガ |
| 子女 |
フランチェスコ3世 エレオノーラ アンナ イザベッラ グリエルモ ルドヴィーコ アレッサンドロ フェデリーコ |
| 家名 | パレオロゴス=モンフェッラート家 |
| 父親 | モンフェッラート侯グリエルモ9世 |
| 母親 | アンヌ・ダランソン |
| 宗教 | キリスト教カトリック教会 |
マルゲリータ・パレオーロガ(Margherita Paleologa, 1510年8月11日 - 1566年12月28日)は、モンフェッラート女侯(在位:1533年 - 1536年)。また、マントヴァ公フェデリーコ2世・ゴンザーガと結婚した。マルゲリータは、息子たちが未成年であった時期に、マントヴァ公国の摂政を二度務めた。最初に長男のマントヴァ公フランチェスコ3世・ゴンザーガの摂政(1540年 - 1549年)、次に次男のマントヴァ公グリエルモ・ゴンザーガの摂政(1550年 - 1556年)であった。
結婚
1517年、マルゲリータの姉マリアは、フランチェスコ2世・ゴンザーガとイザベラ・デステの息子で、後にマントヴァ侯およびマントヴァ公となるフェデリーコ2世・ゴンザーガと婚約した[注釈 1][3]。この婚姻契約は1529年に無効とされた[4]。後にフェデリーコの関心はマルゲリータに向けられた。マルゲリータの結婚相手として様々な候補者を検討した結果、母アンヌ・ダランソンはゴンザーガ家との縁戚関係を選び、1531年10月に結婚が成立した[5]。この結婚生活は、フェデリーコが40歳で亡くなるまで9年間続いた。夫妻の最後の子供は、フェデリーコが亡くなった年に生まれた。
1533年、マルゲリータは叔父のモンフェッラート侯ジョヴァンニ・ジョルジョからモンフェッラート侯位を継承した。しかし実際には、当時その領土はスペインの占領下にあった。1536年、夫はマルゲリータとの婚姻によりモンフェッラート侯に叙せられた。
摂政
1540年に夫フェデリーコが亡くなると、長男フランチェスコ3世はマントヴァ公とモンフェッラート侯を兼ねた。フランチェスコはまだ8歳の未成年であったため、マルゲリータが摂政を務めた。
マルゲリータは息子フランチェスコ3世を神聖ローマ皇帝フェルディナント1世とアンナ・ヤギエロの娘カタリーナと結婚させた。また、次男グリエルモをカタリーナの妹エレオノーレと結婚させた。フランチェスコはカタリーナとの結婚から1年後の1550年に亡くなった。二人の間には子供は生まれなかった。
マルゲリータの次男グリエルモがマントヴァ公位を継承し、マルゲリータは義弟であるエルコレ・ゴンザーガ枢機卿の協力を得て摂政を務めた。摂政として、マルゲリータは事業の立ち上げを通じてマントヴァの経済発展を促す法律や規則を制定した。河川港の改修を行い、公国の要塞と防衛を強化した。外交政策においては親スペイン派であったため、1555年にはフランス王がモンフェッラートを占領した。モンフェッラートは1559年のカンブレジ条約までフランスが保持することとなった。
マルゲリータの摂政は、1556年に息子が成人したことにより終了した。
マルゲリータは1566年12月28日にマントヴァで亡くなった。
1574年、マルゲリータの息子の死後、母国モンフェッラート侯国はマントヴァ公国の一部となった。モンフェッラート侯としては次男グリエルモはグリエルモ10世と呼ばれる。