マルコム・コールドウェル
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マルコム・コールドウェル | |
|---|---|
| 生誕 |
James Alexander Malcolm Caldwell 1931年9月27日 スターリング(スコットランド) |
| 死没 |
1978年12月23日(47歳没) プノンペン(民主カンプチア) |
| 国籍 | イギリス |
| 出身校 | エディンバラ大学、ノッティンガム大学 |
| 職業 | 経済史家、政治活動家 |
| 雇用者 | ロンドン大学東洋アフリカ研究学院 |
| 政党 | 労働党 |
ジェームズ・アレクサンダー・マルコム・コールドウェル(英語: James Alexander Malcolm Caldwell、1931年9月27日 - 1978年12月23日[1])は、イギリスの経済史家・政治活動家である。民主カンプチアにおけるクメール・ルージュ政権の強固な支持者であったものの、1978年にカンボジアに招聘され、ポル・ポトと会談した数時間後に殺害された。研究者としては東南アジア経済史を専門としており、ロンドン大学東洋アフリカ研究学院(SOAS)にて教鞭を取っていた。また、アジアの革命運動を取り扱う学術誌である『Journal of Contemporary Asia』の創刊者となった。
コールドウェルは、スコットランドのスターリングにて、炭鉱労働者の家庭に生まれた[2][3]。カークブリー・アカデミーにて教育を受け、1949年に首席(ドゥクス)となった[4]。エディンバラ大学で経済史を専攻し、1953年に修士号を取得した。また、1956年にノッティンガム大学にて博士号を取得した[5]。博士論文は、1909年から1911年までの商務庁の労働・社会政策について取り扱うものであった[6]。その後、国民奉仕制度にもとづきイギリス陸軍にて2年の兵役を履行した。1959年よりロンドン大学東洋アフリカ研究学院(SOAS)にてリサーチフェローとして勤務する。1962年より講師となり、東南アジアの経済史について教鞭を取った[3]。
彼は研究者であると同時に、熱心かつラディカルな政治活動家でもあった。1968年から1970年まで、イギリスの反核団体である核軍縮キャンペーンの代表者をつとめたほか、アメリカをはじめとする西側諸国の外交政策および資本主義経済を批判した。SOASにおいて彼のイデオロギー的立場は、保守派の研究者や大学当局をはじめとしてしばしば非難の対象となり、研究が「十分に学術的ではない(insufficiently scholarly)」という理由から昇給を阻まれることや、いくつかの科目において講義を行うことを制限されることもあった[3]。彼は、アジアにおける革命運動を取り扱った学術誌である『Journal of Contemporary Asia』の創刊者でもあった。また、1978年にはベクスリー・ロンドン特別区議会にて労働党の候補者として出馬した[7]。
コールドウェルはアジアの社会主義運動・解放運動に深い共感を寄せていた。彼は農本主義的革命を実現した民主カンプチアを支持しており、西側におけるポル・ポト政権のもっとも強固な擁護者のひとりとして知られていた。当時よりすでにカンプチアにおいて虐殺が行われている事実は西側メディアによって報道されていたが、コールドウェルはこれを否定しようとし、スターリニスト的であるとの批判を受けることもあった。彼は虐殺の証言に対しても、「フランス革命では何人死んだのか?」と応じた[8]。