マルティン・クラウゼ
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ザクセン王国(現ザクセン州)ロプシュテットで聖歌隊指揮者・教会学校校長であった父ヨハン・カール・フリードリヒ・クラウゼの末子として生まれる。ボルナの教員養成学校で学んだ後、ライプツィヒ王立音楽学校に学び、フランツ・リストに師事する[1]。後に彼自身もライプツィヒでピアノ教師、音楽評論家としての地位を確立した。1885年には同地でフランツ・リスト協会を創立[1]。1900年よりドレスデン音楽院、1901年からミュンヘンの王立音楽学校、そして1904年からはベルリンのシュテルン音楽院で教授を務めた[1]。門下生の一人クラウディオ・アラウによれば、クラウゼの印象は「凝結された体力」「ザクセン訛り」「ユーモア」「激しい気性」であったという[1]。スペインかぜの犠牲となり、1918年8月2日に死去した。