マンタイ (ウラナラ氏)

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マンタイ (満洲語ᠮᠠᠨ᠋ᡨ᠋ᠠᡳ, 転写:Mantai, 漢語:滿泰) (生16世紀-歿1596)は、ウラナラ氏、第二代ウラ・ベイレ (烏拉国主) ・ブガンの次子で、第三代国主。[1]

在位中にハダ部の支配下から離脱を果し、スワン (ᠰᡠᠸᠠᠨ, suwan, 蘇完) 部、シベ (ᠰᡳᠪᡝ, sibe, 錫伯) 部を立続けに併呑してウラの国土を拡大した。後にはイェヘ部を筆頭とする九部連合軍に参加して清太祖ヌルハチ率いる建州部 (後金の前身) とグレ山に於ける激戦を繰り広げたが、弟・ブジャンタイが捕縛され俘虜となった。マンタイはその数年後、辺境地視察の際に刺殺された。

ウラナラ氏
仮名 マンタイ
満洲語 ᠮᠠᠨᡨ᠋ᠠᡳ
転写 Mantai
繁体字 滿泰
拼音 Mǎntài
親族
ブガン
兄弟 ブダン(布丹)
ブジャンタイ(布占泰)
子女 撮胡里
ナムダリ(納穆達里)
アブタイ(阿布泰)
ブダリ(布打里)
アバハイ

マンタイ即位後の時期は正に、ハダ部主・ (王台) が死歿し同部が衰頽していた頃で、萬の三子が後継者争いに明け暮れていた。マンタイはこの機を捉えハダ部からの離脱を果した。マンタイは南へ進攻し、イェヘ部と連合してスワン、シベ両部を分領し、ウラの旧領であるスイハ・ホトン (綏哈城) を奪回した。スワン部主・グヮルギャ (瓜爾佳) 氏ソルゴ (索爾果) と子・フュンドン (後金開国五大大臣の一) らは南方の建州部 (後金の前身) に身を寄せ、[2]シベ部主はイェヘ部に投降した。[3]マンタイはウラ国に亡命していた萬の五子・メンゲブル (孟格布禄)[4]のハダ国帰還と国主の地位継承を後押しし、弟・ブジャンタイを派遣してイェヘ部とホイファ部との間の紛争調停を買って出るなど、ウラ国の名を大いに轟かせ、いつしか萬亡き後の海西盟主の地位を窺うようになった。しかし、当時イェヘ部の実力はウラ部のそれを上回り、且つ明朝がその後ろ盾となっていたことから、マンタイは最終的に断念しイェヘ部に盟主の地位を譲ることとなった。[5]

万暦21 (1593) 年6月、ヌルハチに不満を抱くイェヘ国主のブジャイ (布寨)[6]および同部のナリムブル (納林布禄) ベイレの誘いに乗ったマンタイは、ハダ国主のメンゲブル[4]、ホイファの国主バインダリらとともに兵馬を率いてフブチャ・ガシャン (瑚卜察寨) を襲撃した。[7][8]9月、マンタイは弟のブジャンタイに兵3,000を附けて出陣させ、[9]イェヘ部を首魁とする九部連合軍の建州侵攻に参加させたが、連合軍は大敗を喫し (グレ山の戦)、海西盟主のイェヘ国主・ブジャイ[6]は殺害され、[10]ブジャンタイは俘虜の身に堕ちた。[11][7]マンタイはブジャンタイの境遇を考えて思い切った行動が採れず、その後の建州侵攻への参加も取り止めとなった。姻戚関係を結んでブジャンタイを連れ戻そうとしたが、ヌルハチにすげなく拒絶され、[9]情勢に照らしてヌルハチとの和睦に転じた。

万暦24(1596)年、マンタイはブジャンタイの家族20余人を建州部に移送してブジャンタイと住まわせた。[12]この時、ウラとイェヘとはスワン部領地を分領したことで互いに国境を接することとなり、それに伴って国境沿いでの紛糾が目立ち始めた。マンタイは大軍を率いて辺境地区のスワヤン・シラン(蘇斡延湿欄)[13](現吉林省長春市双太河)に向い、越境イェヘ人を駆逐して、防塁の再設置に着手した。同年7月、ヌルハチは護衛2人を附けてブジャンタイをウラ国へ送還したが、同月、ブジャンタイの到着を待たずしてマンタイと長子・撮胡里は刺殺された。マンタイの叔父ヒンニヤ(興尼牙)[14]は国主の地位を狙い、帰還したブジャンタイの殺害を企てたが、ヌルハチの附けた2人の護衛の前に手も足も出ず、結局イェヘ部へ亡命し、[15]ブジャンタイが第4代ウラ国主に即位した。[1][16][17]

マンタイ父子の下手人については多説あり、一般的に云われるのはマンタイが子の撮胡里とともに村の二人の婦女を強姦し、夜になって夫に殺されたという説である。[16][15]別の説では、興尼牙がイェヘの支持を取り付けて政変を起し、父子を殺害した上で「父子が婦女暴行の仇として殺された」という噂を流したというものである。[18]

マンタイの子孫

脚註・参考

参照文献・史料

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