マーティン・ジェームズ・モンティ

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死没 2000年9月11日(2000-09-11)(78歳没)
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国ミズーリ州
軍歴 1942年 - 1944年, 1947年 - 1948年(アメリカ陸軍)
1944年 - 1945年(武装SS)
マーティン・ジェームズ・モンティ
Martin James Monti
生誕 (1921-10-24) 1921年10月24日
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国ミズーリ州セントルイス
死没 2000年9月11日(2000-09-11)(78歳没)
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国ミズーリ州
所属組織 アメリカ陸軍
武装親衛隊
軍歴 1942年 - 1944年, 1947年 - 1948年(アメリカ陸軍)
1944年 - 1945年(武装SS)
最終階級 少尉(Second Lieutenant, アメリカ陸軍, 1944年)
SS少尉(Untersturmführer, 武装SS)
軍曹(Sergeant, アメリカ陸軍, 1948年)
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マーティン・ジェームズ・モンティ(Martin James Monti, 1921年10月24日 - 2000年9月11日)は、アメリカ合衆国出身の軍人。第二次世界大戦中には飛行士としてアメリカ陸軍航空軍に勤務していたが、1944年10月に枢軸国側へと寝返り、以後プロパガンダ活動に参加した。戦後、脱走について裁かれ、長期懲役刑が言い渡されていた。後に特赦を受けたが、反逆についても別途裁かれ、改めて長期懲役刑を課されている。

モンティは第二次世界大戦中に自発的にドイツへと亡命した唯一の米軍人である。また、反逆について有罪判決を受けた唯一の米将校であり、公判で反逆を自白した最初の米市民である[1]

1921年、豊かな夫婦の子として生を受ける。彼は7人兄弟の1人だった。父マーティン・モンティ・ジュニア(Martin Monti Jr.)はセントルイス生まれの投資仲介人(investment broker)であった[2]。父方の祖父はスイスのイタリア語圏であるイタリアン・グラウビュンデン英語版出身の移民で、父方の祖母はイタリア出身だった[3]。母マリー・アントワネット・ウィーザウプト(Marie Antoinette Wiethaupt)はミズーリ出身で、母方の祖父母はドイツ系アメリカ人だった[4][5]。第二次世界大戦中、7人兄弟のうちモンティ自身を除く男4人は全員がアメリカ海軍に入隊した。

1930年代のモンティはチャールズ・カフリン司祭の支持者であった[6]。カフリンは反共主義・反ユダヤ主義を掲げ、ドイツやイタリアのファシスト政権への支持を表明していたことで知られた人物であった。カフリンが毎週行っていたラジオ放送は、1939年の第二次世界大戦勃発に伴う放送禁止まで多数のリスナーを抱えていた[7]

第二次世界大戦

1942年8月、徴兵登録手続きを行う。この時には兄弟と同様に海軍への入隊を望んでいた[1]。1942年10月、カフリン司祭と面会するためデトロイトに向かう。11月、アメリカ陸軍航空軍に飛行士候補生として入隊。1943年から1944年初頭にかけて飛行訓練を完了し、飛行士官(Flight officer)となる。P-39戦闘機およびP-38戦闘機の操縦資格を得た後、少尉に昇進。1944年8月、カラチ方面に派遣される。第126補充隊(126th Replacement Depot)配属後に中尉へと昇進[5]

1944年10月1日、モンティは無許可のままカイロ行の輸送機に乗り込み、トリポリリビアを経由し、イタリアへと向かった。フォッジャでは第82戦闘機群(82nd Fighter Group)に勤務する飛行学校同期らに働きかけて同部隊への配属を求めたものの、書類不備のため認められなかった。その後、ナポリ北方のポミリアーノ飛行場英語版に向かった。同飛行場に駐留する第354兵站飛行隊(354th Air Service Squadron)は、前線に送る航空機の調達を担当していた。10月13日、第82戦闘機群所属の飛行士を装ったモンティは、テストフライトという口実で偵察仕様のP-38戦闘機への搭乗許可を得た。12時30分頃、モンティの乗ったP-38戦闘機は離陸し、2時間後にミラン近郊にあるドイツ軍の小さな野戦飛行場に着陸し、直ちに捕虜となった[5]

モンティはドイツのために働きたいと申し出たものの、当初は一般捕虜として収容所に送られた。しかし、11月中頃までにはドイツ側もモンティが本物の脱走兵であると判断した。アメリカ軍が14日に出したモンティの逮捕命令をドイツ軍が傍受したことも影響していると言われている[5]。モンティはドイツ側に対し、「この戦争は実際には世界を奴隷化するための共産主義者の陰謀であり、アメリカはロシアではなくドイツと同盟すべきである」などと主張していた[1]。モンティが盗みだしたP-38戦闘機は、ドイツ空軍ヴァンダーツィルクス・ローザーリウス(鹵獲機試験飛行隊)へと引き渡された。

1944年末、モンティはベルリンにあったクルト・エッガースSS連隊英語版(武装SS所属の宣伝部隊)のスタジオでマイクテストを行っていた。ドイツ側のプロパガンダ要員として働くにあたり、モンティは母親の旧姓を取ってマーティン・ウィーザウプト(Martin Weithaupt)を名乗った[5][1]。1945年初頭には帝国放送協会に採用される。枢軸サリーことミルドレッド・ギラースと仕事を共にすることもあったが、ギラースは出会った直後からモンティをひどく嫌っており、「彼と共に働くくらいならこの仕事をやめる」とまで語っていた。また、モンティにはラジオコメンテーターとしての才能も欠けており、彼の声が電波に乗ったのはわずか数回のみだった[8]。その後はSS少尉に任命され、ドイツ兵や連合国軍捕虜に配布する冊子の制作に携わった。

1945年5月10日、ミラノ近郊にてアメリカ軍に投降した[1]。彼はSS将校の制服を着用したままだったが、脱走に際しての変装用にパルチザンからもらったものだと釈明した。この時点で陸軍はモンティが自発的にドイツに寝返ったことに気づいていなかった[5]

戦後

脚注

外部リンク

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