チギルは1948年5月24日、白ロシア共和国ミンスク州ウソヴォ村に生まれた[1]。
大学卒業後は国家銀行に勤め、地区支店の経済担当から、ミンスク支店長にまで昇進した。その後、1988年から1991年にかけてアグロプロムバンク取締役会第一副議長、1991年から1994年にかけてベラグロプロムバンク取締役会議長を務めた。
1994年7月21日、アレクサンドル・ルカシェンコは首相任命権限を自らに付与するよう議会に提案し、最高会議は多数決でこれを承認した。翌22日、ミハイル・チギルは大統領令第1号により、ルカシェンコ大統領によってベラルーシ共和国首相に任命された[2]。
1996年11月18日、チギルは、国民投票をめぐるルカシェンコとの意見対立を理由に、抗議の意思を示して首相を辞任した。
辞任後は実業界に身を置き、モスクワで活動した。1999年初頭、ベラルーシ最高会議が大統領選挙の代替実施を発表したのを受けて帰国し、野党陣営に加わった。同選挙で大統領候補として立候補し、民主的発展の道に国を戻すことを目指した。14万5千筆以上の署名を集め、そのうち13万筆を選挙管理委員会に提出した。
しかし1999年3月30日、選挙直前に「職権乱用」、「権限および職務権限の濫用」、ならびに職務怠慢の容疑で逮捕された[3]。これらはいずれも銀行部門、首相在任中の容疑に関するものだった。
チギルの逮捕は諸外国の政府から非難を受け、米国国務省、欧州連合、欧州安全保障協力機構から釈放が要求された。
ピシャロフ城刑務所に拘留され、1999年11月30日に出国禁止を条件に保釈された。
2000年5月19日、懲役3年執行猶予2年の判決を受けた[4]。その後も2002年まで法廷闘争が続き、最終的に2002年7月23日、裁判所は「犯罪の公訴時効の成立」を理由に、チギルに対するすべての 起訴を取り下げた。
2001年の大統領選挙では立候補を試みたものの、候補者登録に必要な有権者10万人分の署名を集めることができず、名簿登録に至らなかった。その際、野党候補であるウラジーミル・ゴンチャリクを支持した。
2000年代半ば以降は政界を引退し、養蜂に従事している。2010年の大統領選挙ではヤロスラフ・ロマンチュクの代理人を務め、2020年大統領選挙ではアナスタシア・カノパツカヤの選挙対策本部長を務めた。