ミハイロ・ヴェルビツキー

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ミハイロ・ヴェルビツキー
Михайло Вербицький
1870年ごろのヴェルビツキーのリトグラフ
基本情報
生誕 1815年3月4日
オーストリア帝国の旗 オーストリア帝国
ヤボルニク・ルスキ英語版
死没 (1870-12-07) 1870年12月7日(55歳没)
オーストリア=ハンガリー帝国の旗 オーストリア=ハンガリー帝国
ムウィニ

ミハイロ・ミハイロヴィチ・ヴェルビツキーウクライナ語: Михайло Михайлович Вербицький, 1815年3月4日 - 1870年12月7日)は、ウクライナ作曲家ウクライナ東方カトリック教会司祭だった。彼はガリツィアにおける、はじめての職業的作曲家のひとりと見なされている[1]。彼は、ウクライナの国歌を作曲した事により、もっとも高く認知されている。

ヴェルビツキーによる国歌は、ロシアのウクライナ侵攻の結果として、ウクライナに対する共感として世界のオーケストラや音楽家たちによって広範に演奏されるようになった[2]

ミハイロ・ヴェルビツキーは、サン川の流域において生まれた。彼の正確な誕生地については出典によって異なっており、ヤボルニク・ルスキ英語版で生まれ[1]ポーランドでもっとも古い木造教会があり、彼の父親が当地の司祭を務めていた、8キロの距離に位置するウリュチ英語版で洗礼を受けたとする説がある[3]。現在、どちらもポーランドのポトカルパチェ県に位置している。

ヴェルビツキーは司祭の一家に生まれた。10歳で孤児として残された彼は、父方の遠縁にあたるイヴァン・スニフルスキー英語版司教に引き取られた。スニフルスキーはミハイロをプシェムィシルに連れて行って、共に生活する一方で、町ではじめてのウクライナ語新聞の印刷所の創設や、編纂したウクライナ語の伝承集や教本の出版にたずさわるなど、彼の遠縁は旺盛に活躍した。1818年、スニフルスキーは、町に執事の養成にあたる機関、その10年後には司教座聖堂の聖歌隊と音楽学校を設置した。その結果として、ヴェルビツキーは、とても活発で創造性に満ちた環境に置かれる事になったのである。

1833年にヴェルビツキーは、リヴィウの聖職者養成を目的とする神学校に進んだ。そこで、まじめに音楽に取り組むようになった彼はギターの演奏を学び、彼がもっとも好む楽器になった。最後に、彼はギターの演奏の方法を教える教則本を執筆、その楽器のために作品を創作した。経済的な理由により、彼は神学校を2回去ったが、それでも、最後に彼は卒業して司祭になった[3]

1852年5月、当時、ヤーヴォリウ英語版の郡の知事だったウー・ロジンスキー神父の命により、ヤーヴォリウ郡ザルジッジャ村の小教区に赴任し、そこで彼は1853年8月まで仕えた。1853年から1856年まで、彼はリヴィウ州サンビル地区英語版ストリルキー英語版の丘に建つ礼拝所の管理者を務めた。1792年に建立された礼拝所は現存していないものの、現在、跡地には、地域のランドマークに挙げられる聖エウスタキウス教会が建っている。ミハイロ・ヴェルビツキー神父がこの教会で仕えていた事を示す記念の銘板が存在する。丘の麓には、過去に彼が暮らした教区司祭館が建っていた。しかし、それも現存はしておらず、1902年、それの跡地に新たな建造物が建てられた。地域の学校に彼の名が名づけられ、現在、ストリルキーで、ミハイロ・ヴェルビツキー神父の名を冠した音楽祭が開催され、郡や州の各地から、もっとも優れた教会や学校からの合唱団が集結する[4]

ヴェルビツキーが人生の多くを送ったムウィニ村の教会
ムウィニ村の、司祭ミハイロ・ヴェルビツキーとオレクサ・ヴェリチコの墓の上に築かれた礼拝堂

1859年、ヴェルビツキーは、ヤーヴォリウ郡のムウィニ村英語版の小教区に赴任、そこで、没するまでの残りの生涯を送り、働いた。彼が司祭として、神のひとり子(Єдинородний Сине)英語版聖なる神(Святий Боже)ハレルヤ(Алилуя)われらの父よ(Отче наш)そして天より主をほめたたえよ(Хваліте Господа з небес)英語版を含む礼拝のために創った作品は、今なおガリツィア地方の全域で歌われている[3]

音楽

作曲家として、彼は近代的なウクライナ音楽の確立の根底を構築する事に尽力した。彼の作品は形式的には単純な物で、しばしば、有節歌曲形式だった。しかし彼の劇音楽、特に1870年の『単純な娘』は流れるような旋律かつ、歌唱が容易で、絵画的な感情を呼び起こす民謡の分野を代表する物だった。彼の器楽の作品は、単なる民謡の発展を超えるものではない。それでも、彼は12曲の交響曲や序曲を創り、そのうちの第6番は、スタニスラフ・リュドケヴィチ英語版の管弦楽曲やピアノ三重奏曲のもとになった。また、1868年、彼は、タラス・シェフチェンコの詩による、ひとりのバス歌手、二重合唱、管弦楽のための『遺言』、1864年、レンベルグ(リヴィウ)で上演されたオペレッタ『山岳の人々』そして多くの宗教や世俗的な合唱作品を創作した。彼は1917年、ウクライナ人民共和国の政府によって新たに採用されたパヴロ・チュビンスキー英語版の詩による、ウクライナの国歌である『ウクライナは滅びず』の作曲者としてもっとも認知されている。

作品

音楽学者のウリアナ・ペトリュスは、ミハイロ・ヴェルビツキーによって作曲された、次の作品を含む、既に知られた133曲の一覧をまとめた。

  • 30曲の大規模な世俗の合唱曲
  • 37曲の宗教的な合唱曲
  • 複数の重唱曲
  • 10曲の歌曲
  • 10曲の民謡の編曲
  • 9曲の交響曲を含む18曲の管弦楽曲
  • 複数の室内楽曲
  • 15曲のさまざまなの楽器のための作品
  • 12曲の舞台音楽の作品

記念物

2005年、ミハイロ・ヴェルビツキーの墓の上に、ウクライナの国歌の140周年および、それの作曲者の190周年を祝って、礼拝堂が開かれた。

関連項目

脚注

出典

外部リンク

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