ミールエマード・ハサニー
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ミールエマードはガズヴィーンに生まれ、学問の手ほどきは同地で受けた。ミールエマードの一族は、ハサン裔のセイエドであり、サファヴィー朝で蔵書管理と会計をしていた[2]。アラビア書道(ペルシア書道)におけるミールエマードの師匠はイーサー・ラングカール、マーレク・デイラミー、モハンマド・ホセイン・タブリーズィーであったとする説[注釈 1]が近代以後にみられるようになるが、同時代史料による裏付けを欠く[2]。一説によるとモハンマド・ホセイン・タブリーズィーの弟子になるためタブリーズへ行き、そこで暮らしたのち、バグダード、ハラブ、ヒジャーズに遊学した[2]。遊学中、何回かガズヴィーンに戻っており、アサディーの『ガルシャースブナーメ』やサアディーの『ゴレスターン』『ブースターン』の写本を制作している[2]。
その後、ミールエマードはセムナーンに戻り、サファヴィー朝のシャー・アッバース(大王)配下のウズベク人の将軍、ファルハードハーン・ガラマーンルー(Farhād Khan Qaramānlū)に書記官として出仕した[2]。ファルハードハーンはミールエマードの制作活動を経済面で支えたが、1598年にシャー・アッバースより死を賜る[2]。ミールエマードは、おそらくは、このシャーの仕打ちに悲憤し、宮仕えを避けるためにガズヴィーンに戻った[2]。しかし、その翌年に考えを変えて、シャーに書記官としての出仕を願い出る書簡を送った[2]。

