1779年にムスタファはアブデュルハミト1世とブルガリア人のシネペルヴェル・スルタン(en)との間にうまれた。ムスタファは宮廷で英才教育をうけ、父と共に街を視察することまあった。父の死後、いとこのセリム3世が即位するがムスタファは宮廷で快適な生活を送ることができた。(セリム3世も父の死後しばらくは自由に生活をしていた。)
セリム3世が外国大使と謁見するときは弟のマフムトらと一緒にそれにつきそうときもあった。セリム3世はムスタファのことを気に入っており、ムスタファが反体制派と連絡を取っていても注意されるにとどまった。
1807年、従兄の第28代セリム3世が西洋化改革を推進したために保守派の反発にあい、イェニチェリによって廃位されたのを受けて擁立され即位した。
しかし、セリム3世の退位によってイスタンブールから退避したセリム3世派の人々は、ブルガリア北部のルーセを支配するアーヤーン(地方名士)・アレムダル・ムスタファ・パシャを頼っていた。彼らの要請を受け入れたアレムダルはセリム3世の復位を掲げて挙兵し、翌1808年7月下旬にイスタンブールに入った。
ムスタファ4世は他の皇子の即位によって自身の帝位や命が脅かされることを怖れ、幽閉中のセリム3世と弟のマフムトを殺害するように命じた。結局セリム3世の殺害には成功したものの、マフムトはなんとか生き延び、同日イスタンブールに入ったアレムダルらはマフムトを擁立し即位させた(マフムト2世)。弟の即位によってムスタファ4世は廃位されて幽閉された。