ムルスコ・スレディシュチェ
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| ムルスコ・スレディシュチェ Mursko Središće | |||
|---|---|---|---|
市内中心部 | |||
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| 位置 | |||
| 座標 : 北緯46度30分0秒 東経16度26分0秒 / 北緯46.50000度 東経16.43333度 | |||
| 歴史 | |||
| 成立 | 1997年3月22日 | ||
| 行政 | |||
| 国 | |||
| 郡 | メジムリェ郡 | ||
| 市 | ムルスコ・スレディシュチェ | ||
| 市長 | Dražen Srpak | ||
| 地理 | |||
| 面積 | |||
| 市域 | 33.9[1] km2 | ||
| 標高 | 167 m | ||
| 人口 | |||
| 人口 | (2021年現在) | ||
| 市域 | 5,855[2]人 | ||
| 都市圏 | 3.321[2]人 | ||
| その他 | |||
| 等時帯 | 中央ヨーロッパ時間 (UTC+1) | ||
| 夏時間 | 中央ヨーロッパ夏時間 (UTC+2) | ||
| 郵便番号 | 40315[3] | ||
| 市外局番 | 040 | ||
| ナンバープレート | ČK | ||
| 公式ウェブサイト : mursko-sredisce | |||
ムルスコ・スレディシュチェ(クロアチア語: Mursko Središće)は、クロアチアのメジムリェ郡の都市及び基礎自治体。クロアチア最北端の都市であり、メジムリェ郡の最も古い都市の一つとしても知られる[4]。
地理
歴史
中世から近世
一部の歴史家たちによると、1330年代ごろからハリカヌムと呼ばれる集落がローマ時代にはすでにこの地にあり、プトゥイとカルヌントゥムを結ぶローマ街道の重要な中継地点であったと考えられている[4]。しかし、ハリカヌムは現在のレンダヴァ周辺にあったと主張する歴史家もいる。また、1477年の史料で重要な市場として記載されるまでは、この場所は教区として記載され、1650年にはこの場所はムラ・ゼルダヘルという名称で記録されている[4][6]。
1477年には、ムルスコ・スレディシュチェが既に中心集落として機能していたことが記録されている。1660年には51の農場があり、1771年には59軒の家屋と412人の住民がいたとされ、その間に集落としてゆっくりと発展していった。そして1857年の国勢調査では、すでに938人の人口がいたとされる[4]。
20世紀初頭から現代
20世紀ごろになるとムルスコ・スレディシュチェは急速に発展することとなる。これは1889年に建設されたチャコヴェツ – レンダヴァ間の道路と鉄道の恩恵も大きかったが、鉱業もその一因であった[4]。1850年にセルニツァとペクレニツァで石油採掘が始まり、1918年までにはペクレニツァで約1,000トン、セルニツァで約5,900トンもの石油が生産されたとされる[4]。
第一次世界大戦後には1923年に現在のムルスコ・スレディシュチェの産業の軸となる繊維産業会社のPmtcが設立される。1961年には同社の工場が建設され、近代化ともに従業員数と生産力が増加していった。2002年に工場は民営化され、以後Pmtc社はムルスコ・スレディシュチェの主要な工場となり、現在もなお同市の産業を支えている[7]。
それと同時期に石炭採掘が開始され、1925年にはメジムリェ郡に最初の坑道であるフラスティンカ1号が開坑された。なお、メジムリェ郡には有能な鉱員がいなかったことから主な鉱員はスロベニアから雇われることとなった。それまで石炭採掘はクラリッチ・イ・マイヘン社が行っていたが、1946年にメジムリェ鉱山会社が設立され、同社は国営となった。設立から1972年の閉鎖まで4,593,961トンの石炭が採掘され、メジムリェ郡だけではなく、ムルスコ・スレディシュチェにも多大な経済発展を促した[4]。今日では、鉱滓堆積場や都市の中心部にある鉱員の記念碑や映画館、サッカークラブ、バスケットボールクラブの名前などに炭鉱時代の名残が残されている[4]。
