モハマッド・ナシール

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生年月日 1908年7月17日
没年月日 (1993-03-14) 1993年3月14日(84歳没)
モハマッド・ナシール
Mohammad Natsir
生年月日 1908年7月17日
出生地 オランダ領東インドの旗 オランダ領東インド 西スマトラ州ソロク
没年月日 (1993-03-14) 1993年3月14日(84歳没)
死没地 インドネシアの旗 インドネシア ジャカルタ
所属政党 (インドネシア・イスラム党→)
マシュミ
称号 インドネシア国家英雄
配偶者 ヌンナハル
インドネシアの旗 第5代首相
内閣 ナシール内閣
在任期間 1950年9月5日 - 1951年4月26日
大統領 スカルノ
インドネシアの旗 情報通信大臣
内閣 シャフリル内閣
ハッタ内閣
在任期間 1946年3月12日 - 1947年6月26日
1948年1月29日 - 1949年8月4日
大統領 スカルノ
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モハマッド・ナシール(Mohammad Natsir、1908年7月17日 - 1993年3月14日)は、インドネシアウラマー政治家

1950年から1951年にかけて首相を務め、退任後はスカルノスハルト両政権に対して批判的な立場を貫いた。英語オランダ語フランス語ドイツ語アラビア語を話すマルチリンガルであり、エスペラントも理解することができたという[1]

植民地時代

ナシールの切手(2011年)

1908年に西スマトラ州ソロクで生まれる。父モハマッド・イドリース・スターン・サリパドはオランダ領東インドの地方政府で働く現地人官吏だった[2][3]。1916年にパダンの現地人向けの学校に入学し、数カ月後にはソロク校に移り勉強を続けるかたわら、夜はマドラサに通い勉強した[2][3]。1919年に妹と共にパダン校に移り、卒業後はバンドンの高校に進学する[3][4]。ナシールは後年、「西洋の古典史を学ぶために進学した」と語っている[2]。その後は大学で2年間教育学を学び、教師の資格を取得する。ナシールはクルアーンイスラム法学に興味を持ち、バンドンのアフマド・ハッサンの下で学んだ[5]。また、高校在学中にジャーナリストとして活動し、1929年に記事を2つ書いている。同年に「イスラムの擁護者」新聞を創刊し、1935年まで活動を続けた。1934年10月20日にバンドンでヌンナハルと結婚し、6人の子供をもうけた[6]

1930年には私立学校を設立してイスラム教教育を施したが、太平洋戦争勃発による蘭印作戦日本軍に占領された際に閉鎖に追い込まれる[7]。学校の閉鎖後、ナシールはアグス・サリムなどのウラマーたちと連携するようになり[8]、1930年代にサリムとスカルノの仲介者となった[9]。1938年にインドネシア・イスラム党に入党し、1940年から1942年にかけてバンドン支部長を務めた[9][10]。また、1945年までバンドンの教育担当を務めていた。日本軍の占領中にはマシュミに参加し、指導者の一人となった[10][9]

インドネシア共和国時代

ナシール内閣(前列左から2人目がナシール。前列中央はスカルノ)

1945年8月17日にインドネシア独立宣言がされると、ナシールはインドネシア中央国民委員会英語版委員に就任する。1950年9月5日には首相に就任し、1951年まで務めた[11]。ナシールの政治理念はクルアーンの「撒き散らすもの」に基いており、イスラム教の教えが国家・社会・個人に影響を持つウンマを理想とした[12]。また、人権問題とイスラム教の近代化にも努めた[13]。ナシールは政教分離原則を取ったスカルノとは異なり、宗教と国家はインドネシア人の本質的な部分であると考え、宗教研究家ウィリアム・モントゴメリー・ワット英語版の言葉を引用し、「イスラム教は単なる宗教ではなく文化そのものである」と主張した。

首相退任後、ナシールはスカルノが掲げる指導される民主主義英語版に反対し、インドネシア革命政府英語版に加わり抵抗運動を展開する。そのため、ナシールは1962年に逮捕されてマランに投獄され、スハルトが実権を掌握した後の1966年7月に釈放された[14]。釈放後はイスラム教団体を設立し、イギリスオックスフォード・イスラム・センター英語版パキスタン世界イスラム協議会英語版と交流を深めた[7]。1980年5月5日にスハルト政権の独裁に抗議する50人の嘆願書英語版を提出し、海外渡航を禁止される[14]。以降は国内に留まり、1970年代にはスカルノ、スハルトのイスラム教に対する扱いについて記した著作を出版している[13]。1993年にジャカルタで死去した[6]

執筆活動

ナシールは生涯で45冊の書籍を出版し、イスラム教に対する見解を述べた数百の記事を掲載した。初期の書籍はオランダ語とインドネシア語で書かれ、イスラム教の教義、文化、政治との関係、女性の役割について論じている[15][16]。後期の書籍は英語で書かれ、イスラム教とキリスト教の関係について論じている[15][17]

アイプ・ロシディハムカ英語版は、ナシールの著作を「歴史的記録であるだけでなく、イスラム教徒にとって未来の指針となる」として高く評価している[15]

顕彰

出典

参考文献

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