1001年、ヤロミール、オルドジフ、そして母は、兄ボレスラフ3世の残虐な仕打ちから逃れるため、父の長年の盟友であったバイエルン公ハインリヒ4世(後の神聖ローマ皇帝ハインリヒ2世)のもとへ逃亡した。ボレスラフ3世は公位が奪われるのを恐れてヤロミールを去勢させた(ボレスラフ3世自身には後継者がいなかった)。1003年、ポーランド公ボレスワフ1世によってボヘミア公とされたヴラジヴォイの死後、皇帝ハインリヒ2世の軍事的支援によりヤロミールは短期間ボヘミア公位に就いた。しかし間もなく、ヤロミールはボレスラフ3世とポーランド公ボレスワフ1世から逃げなければならなかった。
1004年秋になってようやく政権を掌握でき、ローマ・ドイツ王ハインリヒ2世の支援を受けてポーランド人はボヘミアから追放され、ヤロミールはようやく政権を掌握することができた。ヤロミールは皇帝ハインリヒ2世からボヘミアを封土として受け入れ(封建関係の象徴として槍を受け取った)、その後数年間、ボレスワフ1世との戦いで帝国を支援した。即位直後、ヤロミールはバウツェンを征服したが、1007年にボレスワフ1世がルサチアとバウツェンを奪還した。ヤロミールの弱体な統治の間、モラヴィアはボヘミアに属していなかった。
1012年春、兄弟の末息子オルドジフがボヘミアの政権を掌握した。ヤロミールは理由は不明ながら最初にポーランドへ逃れ、その後ハインリヒ2世のもとへ逃れ、ユトレヒトに投獄された。ヤロミールはそこで21年間投獄された。
1033年にオルドジフが皇帝コンラート2世に対し陰謀を企てたと告発され廃位されると、帝国軍は1033年秋にヤロミールを三度目のボヘミア公に任命した。しかし翌春、オルドジフは皇帝によって釈放され、公爵の称号は返還された。条件は、ヤロミール(ボヘミアに領地を与える)と息子のブジェチスラフ(モラヴィアを統治する)と共に統治を共有することだった。その後、ヤロミールはオルドジフの命令で盲目にされ投獄され、オルドジフの息子ブジェチスラフは父から逃亡した。
1034年11月9日にオルドジフが突然亡くなると、まだ生きていたが去勢され盲目をされたヤロミールは統治権を放棄し、オルドジフの息子ブジェチスラフ1世がボヘミアで権力を握った。しかし、それでもヤロミールの命は救えなかった。1035年、無力だったヤロミールはヴルショヴツィ家によって殺害された。コスマスはこう書いている。「コハンは処刑人を送り、盲目の男(ヤロミール)が夜中にトイレに座って腹を空にしているとき、背後から鋭い槍で腹に突き刺して呪いの言葉をかけた。」
ブジェチスラフ1世がプラハに到着した時期はどこにも記されていない。ある年代記にのみ「オルドジフの死後1年、ヤロミール自身が公国を統治した」と記されている。ヤロミールがブジェチスラフ1世を公位に引き入れる場面は、コスマスによって描かれていが、オルドジフの葬儀の直後に起こったわけではない。ブジェチスラフ1世は亡命からすぐに戻ることができなかった[3]。