ヴァーツラフ1世 (ボヘミア王)
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生涯
治世初期
1228年2月6日、ヴァーツラフ1世は父オタカル1世と共にボヘミア王国の共同統治者として戴冠した[3]。1230年12月15日、オタカル1世が死去し、ヴァーツラフはボヘミア王として即位した[3]。
治世初期は、オーストリア公フリードリヒ2世によるボヘミアへの脅威への対応に追われた。フリードリヒ2世の領土拡大主義は、他の多くの君主たちの懸念と抗議を引き起こした。1236年、神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世はロンバルディア同盟との戦争に巻き込まれた。皇帝はヴァーツラフをはじめとする神聖ローマ帝国の諸侯らに、戦争遂行のために自国の軍隊の一部を貸し出すよう要求した。ヴァーツラフは、オーストリア公国からの侵略を恐れ、自国の防衛から兵力を転用することに難色を示す諸侯を率いた。彼らは皇帝の介入を要請した[4]。
1236年6月、皇帝はオーストリア公に帝国の禁令を発布した。オーストリア公を討伐するために派遣された軍隊により、オーストリア公はウィーンからウィーナー・ノイシュタットへと逃亡した。オーストリア公はその後1年間、残る領土を統治し続けた。皇帝は、逃亡したオーストリア公が支配していたオーストリアとシュタイアーマルク公国の両方において、直接統治を宣言した。バンベルクの元司教、エクベルト・フォン・アンデクス=メラニエンが両公国の総督に任命された。エクベルトは1237年2月から同年6月5日に死去するまで統治を続けた[5]。ヴァーツラフは、自国の国境付近における皇帝の直接統治権の明らかな拡大に不満を抱いた。ヴァーツラフとオーストリア公フリードリヒ2世は皇帝に対抗する同盟を結成した。皇帝フリードリヒ2世は、新たな戦線を維持するよりも、1237年に禁令を解除することを選んだ。ヴァーツラフはドナウ川以北へのボヘミア領土拡大交渉に成功し、オーストリア公フリードリヒ2世が提示した領土を併合することで同盟関係を確立・維持した。
ヴァーツラフとフリードリヒ2世は、バイエルン公オットー2世という新たな同盟者も得た。1239年6月、ヴァーツラフとオットー2世は破門された皇帝フリードリヒ2世への忠誠を捨て、エゲルで行われた帝国議会を去った。彼らは対立王を選出するつもりであったが、そのような選挙は1246年まで行われなかった。1246年、テューリンゲン方伯ハインリヒ・ラスペが、皇帝フリードリヒ2世とドイツ王コンラート4世に対抗してドイツ王に選出された。
モンゴルによる侵略
1241年、ヴァーツラフは、モンゴル帝国のバトゥ・ハンとスブタイの指揮する軍勢によるボヘミアへの襲撃を撃退することに成功した。これは、モンゴルによるヨーロッパ侵攻の一環であった。バイダル、カダアン・オグルおよびオルダ率いるモンゴル軍は約2万人の兵力でポーランド王国、シレジアおよびモラヴィアを襲撃し、甚大な被害をもたらした。
モンゴルによるポーランド侵攻の際、ヴァーツラフの義兄弟であるシロンスク公ヘンリク2世(敬虔公)は、当初、モンゴル軍撃退のためにヴァーツラフに援軍を要請した。しかし、ヴァーツラフが5万人の兵を率いてレグニツァに援軍として到着するのを待たず、ヘンリク2世は焦りからボヘミアの援軍なしにモンゴル軍を攻撃し、ワールシュタットの戦いを引き起こし敗北した[6]。モンゴル軍の勝利後、ヴァーツラフはボヘミア防衛のために撤退した。ヴァーツラフは道中でテューリンゲンとザクセンから援軍を集め、モンゴル騎兵の機動性を阻害するボヘミアの山岳地帯に退却した。モンゴル軍の前衛部隊がクウォツコを攻撃した際、ボヘミア騎兵は山道でモンゴル軍を撃破した[7][8][9]。ヴァーツラフ軍との戦いに敗れた後、バイダルとカダン率いるモンゴル軍はボヘミアとポーランドを離れ、南下してハンガリーでバトゥとスブタイと合流した。バトゥとスブタイはモヒの戦いでハンガリー軍に辛勝していた。
1242年、スブタイは前年に大ハン・オゴデイが死去したことを聞き、モンゴル軍は東へ撤退した。スブタイは血筋の王子を3人指揮下に置いており、チンギス・ハンはハン(大ハン)の子孫全員が次のハンを選出するクリルタイのためにモンゴルの首都カラコルムに戻るべきだと明言していたからである。ヴァーツラフは侵略者に対して大成功を収め、年代記作者は皇帝フリードリヒ2世が「防衛の勝利」を得たとした[10]。
プシェミスル家によるオーストリア公領支配
1246年6月15日、オーストリア公フリードリヒ2世は、ライタ川の戦いでハンガリー王ベーラ4世と戦い戦死した[11]。フリードリヒ2世の死により、オーストリアにおけるバーベンベルク家の統治は終わりを迎えた[11]。後継者問題により、その後数年にわたり様々な相続人の間で争いが起こった。ヴァーツラフの外交政策は、プシェミスル家のためにオーストリアを獲得することに重点を置くようになった。一方、皇帝フリードリヒ2世は、オーストリアを再び皇帝直轄領とすることに成功した。しかし、帝国総督オットー・フォン・エーバーシュタインは、オーストリアの反乱に対処しなければならず、公国併合による利益を得ることはすくにはできなかった[12]。
1156年9月17日にオーストリアを公国に昇格させた文書である「小特許状(Privilegium Minus)」は、バーベンベルク家の女系による王位継承を認めていた。バーベンベルク家の女子相続人ゲルトルートは、故フリードリヒ2世の姪であり、自らの権利で公位を主張することができた。ヴァーツラフは、長男であるモラヴィア辺境伯ヴラディスラフとゲルトルートとの結婚を取り決めた。ヴラディスラフは妻の権利によりオーストリア公となり、オーストリア貴族の一部からの支持を得ることに成功した。1247年1月3日、ヴラディスラフは急死し、ヴァーツラフの当初の計画は無効となった。ゲルトルートは引き続き公位を主張し、バーデン辺境伯ヘルマン6世と結婚した[12]。
反乱
1248年、ヴァーツラフは、息子オタカル2世が率いるボヘミア貴族の反乱に対処しなければならなかった。オタカルは不満を抱く貴族たちに唆されて反乱を率い、その際に「若王」(mladší král)というあだ名で呼ばれるようになった。ヴァーツラフは反乱軍を鎮圧し、息子を投獄した[13]。オタカル2世は1248年7月31日から1249年11月までボヘミア王の称号を保持した。
1250年末までに、皇帝ヴァーツラフとバーデン辺境伯ヘルマン6世はともに死去した。ヘルマン6世はオーストリア貴族から公位を認められなかったため、ゲルトルートとの唯一の息子であるバーデン辺境伯フリードリヒ1世が公位継承権を主張し続けた。ヴァーツラフはオーストリア侵攻を成功させ、1251年にこれを完了させた。ヴァーツラフはオタカル2世を解放し、モラヴィア辺境伯に任命した。ヴァーツラフはオタカルをオーストリア公に即位させ、貴族たちから支持を得た。オーストリアにおけるプシェミスル家の権利を確固たるものにするため、ヴァーツラフはバーベンベルク家の別の女性を女公とし、息子と婚約させた。オーストリア女公マルガレーテは、フリードリヒ2世の姉であり、ゲルトルートの伯母にあたる。彼女はまた、1242年に亡くなったドイツ王ハインリヒ7世の未亡人でもあった。しかし、マルガレーテはオタカル2世よりかなり年上であった。二人の結婚は1252年2月11日に行われた。
ヴァーツラフの勝利の喜びは長くは続かなかった。ヴァーツラフは1253年9月23日に死去し、オタカル2世が跡を継いだ。
