ユゼフ・パンキェヴィチ
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ポーランド東部のルブリンで生まれた。1884年から1885年の間、ワルシャワの美術学校でヴォイチェフ・ゲルソンとアレクサンデル・カミンスキ(Aleksander Kamiński)に学んだ。奨学金を得て、サンクトペテルブルクに移り、帝国芸術アカデミーに留学した[1]。1889年に同僚のヴワディスワフ・ポドコヴィンスキーと、パリ万国博覧会の展覧会に参加し、銀メダルを受賞した[2]。
パリに滞在中、印象派の影響を受け、1890年にポーランドに戻り、印象派のスタイルの作品を展覧会で紹介しようとしたが批評家からの反応は不評で、パンキェヴィチに眼科医に診断をうけるべきだとも批判された。印象派のスタイルを継続し、ジェームズ・マクニール・ホイッスラーの作品に影響された一連の肖像画を制作した。1900年のパリ万国博覧会に肖像画を出展し、金メダルを受賞した[2]。パリのサロンにも頻繁に出展した。
1897年、クラクフのポーランド美術家協会「Sztuka」の創立者の一人となった。その後の9年間、西ヨーロッパを旅し、1906年にクラクフ美術アカデミーの教授に任命された。フランス、特に地中海沿岸の風景を描き、ポール・セザンヌの影響を受けた一連の風景画を制作した。
第一次世界大戦中はスペインに住みロベール・ドローネと知り合い、ポスト印象派やフォービズムのスタイルを吸収した。
ポーランド美術のロマン主義の伝統に反対する若い芸術家たちのリーダーとなった。1923年にクラクフの美術学校での教育活動を再開し、1925年からはアカデミーのパリの支部の所長を務めた。パンキェヴィチの著名な学生には、ユゼフ・チャプスキー(Józef Czapski)、アリス・ハリッカ(Alice Halicka)、モイズ・キスリング、ヤン・ルブチャック(Jan Rubczak)、ジグムント・ワリシェフスキ(Zygmunt Waliszewski)、ワツワフ・ザワドフスキ(Wacław Zawadowski)らがいた。
第一次世界大戦後は、パンキェヴィチのスタイルはより装飾的になり、一連の静物画を描くようになり、南フランスの風景も描いた。1927年にフランスのレジオンドヌール勲章を受勲した[3]。1933年にポーランド復興勲章を受勲した。1936年に70歳の誕生日を祝う大規模な回顧展がクラクフ国立美術館で開催された。翌年引退して南フランスのリゾート地のラ・シオタに住み、1940年にラ・シオタで亡くなった。