ユリウス・コンスタンティウスの娘
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| 不明 | |
|---|---|
| ローマ皇后 | |
| 在位 | 337年 – 353年頃 |
| 全名 | 不明 |
| 出生 |
不明 |
| 死去 |
353年8月以前 |
| 配偶者 | コンスタンティウス2世 |
| 家名 | コンスタンティヌス朝 |
| 父親 | ユリウス・コンスタンティウス |
| 母親 | ガッラ |
ユリウス・コンスタンティウスの娘は、ローマ皇帝コンスタンティウス2世の皇后[1]。コンスタンティヌス1世の異母弟であるユリウス・コンスタンティウスとガッラの娘だが、名前は判明していない[注釈 1]。なお、文中では以降「彼女」と表記する。
フラウィウス・クラウディウス・ユリアヌスが著した『アテネの人々と元老院への書簡』によれば、「彼女」はコンスタンティウス・ガッルスの姉妹であった[1]。354年にコンスタンティウス2世によってガッルスが処刑されたとき、ユリアヌスは2人の関係について、「コンスタンティウスは最も根深い敵、彼自身の従兄弟であり、副帝であり、彼の妹の夫であり、彼の姪の父親であり、かつて自身が結婚した姉妹をもつ男を差し出したのである。」と、複数の言い方で言及している[3]。
ガッルスは、ユリウス・コンスタンティウスと、彼の最初の妻であるガッラの息子である。そのため、「彼女」はガッルスの実の姉妹であると推測されている[1]。なお、ユリウス・コンスタンティウスは、コンスタンティウス・クロルスとフラウィア・マクシミアナ・テオドラの息子であり、コンスタンティヌス1世の異母弟である。コンスタンティヌス1世が337年に死去すると、その後すぐにユリウス・コンスタンティウスをはじめとする彼の親族は、コンスタンティウス2世によって殺害された[4]。この出来事については、358年にアレクサンドリアのアタナシオスによって著された『アリウス派の歴史』において、「人類に共通する感情であっても、彼自身の血縁者に対して容赦させることはできなかった…。彼は義父の苦しみに同情はしなかった。彼の娘と結婚したにもかかわらず…。」と、コンスタンティウス2世を非難する文脈で語られている[5]。なお、「彼女」の兄弟も、337年に父ユリウス・コンスタンティウスとともに殺害されたと考えられている[4]。