ヨアン・ブラウ
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ヨアン・ブラウ | |
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Joan Blaeu by J. van Rossum | |
| 生誕 |
1596年9月23日 アルクマール |
| 死没 |
1673年12月21日(77歳没) アムステルダム |
| 職業 | 地図製作者 |
| 著名な実績 |
地動説に基づいた初めての世界地図 ニュージーランド命名 |
| 配偶者 | ヘールトライダ・フェルムウーレン (1634-1673) |
| 子供 | ヨアン2世 |
ヨアン・ブラウ (Joan Blaeu オランダ語発音: [ˈjoːɑm ˈblʌu]; 1599年頃 – 1673年12月21日)はオランダの地図製作者。ヨハネス・ブラウ(Johannes Blaeu)とも呼ばれる。1648年に出版された地図『Nova et Accuratissima Terrarum Orbis Tabula』や、1662年に出版された『大地図帳』の製作者として知られている。1648年の地図は地動説に基づいた初めての世界地図であった。また、オランダ東インド会社の公式地図製作者でもあり、アベル・タスマンが発見した土地を、オランダの地名ゼーラント(Zeeland)にちなんでNieuw Zeelandと名付け、この名はその後ニュージーランドとして定着することとなった[1]。
1599年頃[2]、オランダのアルクマールで生まれた。父は地図製作者のウィレム・ヤンスゾーン・ブラウ、母はマリトヘン・コルネリスドクターで、ヨアンは7人兄弟の長男であった[3]。1605年、一家はアムステルダムのオプト・ワーテルに引っ越した[3]。
ヨアンはライデン大学で法律を学び[4]、1620年に法学博士となったが、父の仕事に加わり地図製作者となった。1630年には父と共同で『アトラス補遺』という地図帳を出版し、これが地図製作としての初めての仕事である[5]。1634年、ヘールトライダ・フェルムウーレンと結婚した[5]。1635年、父とともに『全地域に表と説明を添えた世界の舞台』を出版した[6]。同書は人気になり、出版後も出典を増強してたびたび再版された[7]。事業の成功にともない、1637年に工房をアムステルダムのブルームグラハトに移転した[4]。この工房は、印刷用鋳造設備と9台の活版印刷機を備えた、当時のヨーロッパで最大の印刷施設であった[8]。
1638年に父が亡くなり、その数か月後には母も亡くなった[9]。同年、ヨアンは弟のコルネリスとともに父の製作所を引き継いだ。そして、同年の11月には父の後を継いでオランダ東インド会社の公式地図製作者にもなった[9]。しかしコルネリスは1644年に34歳で死亡した[10]。
1640年代から1650年代にかけては大型の地図帳製作に力を注いだ。同世代のヨハネス・ヤンソニウス(ヤン・ヤンソン)とはライバル関係にあり、どちらが精度の高い地図帳を作ることができるかで激しく争った[11]。
1646年、オランダ東インド会社の公式地図製作者として、アベル・タスマンの発見した島に対し、ラテン語でNova Zeelandiaという名をつけた。これはオランダのゼーラント州の名に由来する。この名称のオランダ語Nieuw Zeelandが、ニュージーランドの語源となった[12][13]。1648年にはヴェストファーレン条約締結記念としていくつかの地図を製作し、その影響で大型の地図帳製作作業はたびたび中断された[11]。
1650年、市民警備隊長に任命された。1651年にはアムステルダムの地方議員に選出され、1672年まで務めた[14]。
1662年には、地図帳の印刷に集中するために書籍部門を手放すと発表し、同年には大著『大地図帳』(Atlas Maior)の出版を始めた[15]。
1667年、クラーフェンストラート(Gravenstraat)に、15台の印刷機を備えた印刷所が作られた[14]。しかし1672年、火事により工房とそこにあった作品群は焼失してしまった[16][17]。また、同年にウィレム3世がオランダ総督になると、政治的な力関係が変わったことで、ブラウは議席を失った[14][18]。資産と地位を失ったブラウはその後体調を崩し、翌1673年の12月21日にアムステルダムで死去した[19]。遺体はアムステルダムの西教会に埋葬されている。息子のヨアン2世は父の仕事を引き継ぎ、1712年まで地図製作に携わった[20]。
