ヨハン・ルフィナッチャ
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オーストリア帝国領南チロル(現トレンティーノ=アルト・アディジェ州)の出身。14歳でインスブルックに移り、ピアノとヴァイオリン、音楽理論をインスブルック音楽院で学ぶ。ウィーンに上京して一生その地に定住した。
生前はウィーンにおいてピアノや和声法の教師として高名であり、作曲よりも教育に生涯のほとんどを捧げた。ルフィナッチャはヨハネス・ブラームスを知っており、ブラームスがベートーヴェンの遺産に恥じない創作ができるようになるまで交響楽の発表を躊躇っていた時期に、交響曲を含むたくさんの作品を創り出した。同時代人から当時の主要な作曲家になると予見されていたにもかかわらず、それを実現させることはなく、そのため未だに作曲家としては割りに無名である。しかしながらウィーン音楽院の教師としては影響力を振るい、イグナーツ・ブリュルやユリウス・エプシュタインらを輩出した。
ルフィナッチャは、19世紀のチロル出身の作曲家のうちで最も重要な一人と看做されており、その作品はフランツ・シューベルトとアントン・ブルックナーを繋ぐものと言われる。亡くなる直前に自作の草稿をチロル地方の博物館に寄贈することに決めたため、今日までルフィナッチャの遺稿はそこに眠っている。ルフィナッチャの作品は、楽譜や音源として出回ったことは滅多にない。