ヨハン・ルーカス・シェーンライン
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ヨハン・ルーカス・シェーンライン | |
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| Johann Lukas Schönlein | |
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| 生誕 |
1793年11月30日 バンベルク |
| 死没 |
1864年1月23日(70歳没) バンベルク |
| 博士課程指導教員 | イグナツ・デリンガー |
| 他の指導教員 | フリードリヒ・ティーデマン |
| 博士課程指導学生 |
フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト ルドルフ・ワグナー |
| 主な業績 | ヘノッホ・シェーンライン紫斑病 |
| 命名者名略表記(植物学) | Schönl. |
| プロジェクト:人物伝 | |
ヨハン・ルーカス・シェーンライン(Johann Lukas Schönlein 1793年11月30日 - 1864年1月23日)はドイツの医師、医学史家[1]、古植物学者。
バイエルン州のバンベルクで従軍牧師の息子に生まれた。ランツフートとヴュルツブルクで自然科学と医学を学び、1816年に解剖学の教授デリンガー(Ignaz Döllinger)のもとで比較解剖学の論文を書き、卒業した。バンベルクやイェナ、ミュンヘンなどで医師として働いた後、1817年に教授資格を得て、ヴュルツブルク大学の講師となった。1819年に内科学の教授となり、1824年に病理学と臨床学の教授となった[2]。
1832年に、政治的な理由のために解雇され、チューリッヒに移り、1833年にチューリッヒで臨床医学の教授になった。1839年にベルリン大学に招請され、1840年にプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世の主治医などに任じられた。1858年に引退し、故郷に戻った。
1844年にドイツの科学アカデミーレオポルディーナの会員に選ばれた。
ドイツ医学の近代化に功績があり、死亡した患者の病状の検証のために病理解剖を導入した[3]。1818年から1819年の百日咳の論文では、病状の進行について正確な記述を行った。1826年から打診や、聴診器、血液検査、尿分析など当時新しい技術を利用した。その他いくつかの疾患についての病理学的研究に功績をあげた。有名な病理学者、ルドルフ・ウィルヒョウはシェーンラインの教えた学生の一人である。
医学史の分野で、特に感染症の歴史に興味を持ち、3500冊近い感染症に関する資料を集め、Schönleinianaと呼ばれる資料はヴュルツブルク大学に残された。
古植物学の分野では[4][5]、ヴュルツブルク大学の時代に古い友人の鉱物学の教授、ルートヴィヒ・ルンプフ(Ludwig Rumpf)に影響を受け、三畳紀ドイツ・トリアス紀のKeuper層の植物化石を集め、正確な図を残した[6]。シェーンラインのコレクションはベルリン自然史博物館やヴュルツブルク大学に残され、図は没後、シェンク(Joseph August Schenk)の解説とともに出版された。後にヴィルヘルム・フィリップ・シンパー(Wilhelm Philipp Schimper)やアルバート・スワードといった学者の古生物の著作に引用された。
古植物の種、Neocalamites schoenleinii や Sphenopteris schoenleinianaに献名されている。