リヴィウ州

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リヴィウ州(リヴィウしゅう、ウクライナ語: Львівська область リヴィーウスィカ・オーブラスチラテン文字転写: L’vivs’ka oblast’)は、ウクライナ西部のである。日本語慣用名では、しばしばリヴィフ州(リヴィーウ州)あるいはリビウ州リボフ州と表記・発音される。ロシア語名ではリヴォフ州Львов、リヴォーフ州)、ポーランド語名ではルヴフ州 (Lwów)となる。州都リヴィウ。人口は259万人。

面積
- 総計
- 陸地
- 水域
全ウクライナ第17位
21,833 km²
? km²
? km² (?%)
人口2006年
- 総計
- 人口密度
全ウクライナ第5位
2,555,834
119.54人/km²
概要 リヴィウ州, 国 ...
リヴィウ州
Львівська область
リヴィウ州の旗
州旗
リヴィウ州の印
州章
リヴィウ州の位置
ウクライナ
州庁所在地 リヴィウ
面積
 - 総計
 - 陸地
 - 水域
全ウクライナ第17位
21,833 km²
? km²
? km² (?%)
人口2006年
 - 総計
 - 人口密度
全ウクライナ第5位
2,555,834
119.54人/km²
地区 20
領域共同体 x,xxx
市町村総数
 - うち市の数
 - うち町の数
 - うち村の数

44
34
1,849
州知事 マクシム・コジツキー英語版
ISO 3166-2:UA UA-46
電話番号コード +380-32
公式サイト 合同庁
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歴史

中欧の中心地にあることやカルパティア山脈への入口としての州の戦略的位置によって、州の帰属は歴史的に変遷が多かった。モラヴィア王国キーウ大公国ポーランド王国などがこの地を統治していた。1200年頃から1340年まではハールィチ・ヴォルィーニ大公国として独立しており、その後ポーランド・リトアニア連合によって統治された(1340年から1772年)。

1772年から1918年にかけてはオーストリア・ハンガリー帝国が統治した。第一次世界大戦に敗戦したオーストリア・ハンガリー帝国の崩壊により同地では西ウクライナ人民共和国が建国されたが、ポーランド・ウクライナ戦争に敗れて滅亡。その後のポーランド・ソビエト戦争終結に伴いリガ平和条約により、1920年から同地域はポーランド領となった(ポーランド第二共和国のルヴフ県の一部として)。ポーランドによる支配は約20年間継続したが、ポーランド当局はウクライナ系住民を弾圧した(パシフィカツィアウクライナ語版)ため、ウクライナ系住民はポーランド支配に反発。ウクライナ独立を掲げるウクライナ民族主義者組織が結成された。

1939年9月に、独ソ不可侵条約秘密議定書に基づき、ポーランドがドイツとソ連に分割占領されると、ソ連に編入され、ソ連内のウクライナ・ソビエト社会主義共和国領となった。独ソ戦中の1941年から1944年にかけてはナチス・ドイツが占領したが、ソ連が第二次世界大戦に勝利したことにより、再びソ連領となった。

ソ連はウクライナ人を弾圧したため、戦後は10年ほどウクライナ蜂起軍を中心とした激しい独立運動が展開され、一時は大半の地域をウクライナ独立派が掌握するに到った。しかし、ポーランド軍ソ連軍の軍事作戦やウクライナ人居住区の武力的・政治的弾圧により、この独立運動は悲惨な結果に終わった。これ以降は武力抗争は影を潜め、1960年代以降はソ連が安定して統治した。

1991年にはソビエト連邦の崩壊に伴ってウクライナが独立し、リヴィウ州はその一部となった。

上記の歴史的経緯から、反ロシア感情が根強い。ロシア連邦や親ロシア勢力とのウクライナ紛争を受けて、リヴィウ州議会は2018年9月18日、ロシア語による歌曲を公共の場で流したり、書籍を出版したりすることを禁じる条例を可決した[1]

地理

さらに見る 母語話者(リヴィウ州) 2001 ...
母語話者(リヴィウ州) 2001
ウクライナ語
 
95.3%
ロシア語
 
3.8%
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地形は多様であり、丘陵地帯から草原や森林まである。

州の行政区画

29の区域で構成されており、20のと9つの市町村に分けられる。

地区

人口

2001年ウクライナ国勢調査によるデータ。

  • 総人口2,626,500[2]
  • 都市人口1,558,700人(59%);農村人口:1,067,800人(41%)[3]
  • 性別人口:男性1,245,100人(47%);女性1,381,400人(53%)[4]

脚注

参考文献

外部リンク

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