ルイジアナ演習
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ルイジアナ演習(英語: Louisiana Maneuvers)は、アメリカ陸軍により1940年から1941年にかけてルイジアナ州北部および中西部で展開された一連の演習である。演習地域にはフォート・ポーク、キャンプ・クレイボーン、キャンプ・リビングストンといった軍事基地が含まれていた。一連の演習には400,000名以上の軍人が参加し、訓練、兵站、戦闘ドクトリン、指揮官に対する評価が目的と定められていた。
本演習に参加した将校の中には、第二次世界大戦参戦後に重要な役割を果たした者が少なくなかった。オマール・ブラッドレー、マーク・W・クラーク、ドワイト・D・アイゼンハワー、ウォルター・クルーガー、レスリー・マクネア、ジョセフ・スティルウェル、ジョージ・パットンといった将校が本演習に参加していた。
1939年、ナチス・ドイツによるポーランド侵攻をもって第二次世界大戦が勃発した。当時、アメリカ陸軍は歩兵を主力と定め、砲兵、工兵、騎兵などの各兵科がこれを支援する体制を執っていた。ヨーロッパ各国の陸軍と比較すると規模は遥かに小さく、機械化・自動車化は一部部隊で進められている程度だった。新たな戦争の幕開けにより、陸軍は本格的な近代化の推進、そして急速に拡大しつつも未だ実戦経験の無い全軍の能力をテストする大規模演習を実施する必要性に直面した。レスリー・マクネア大将とマーク・W・クラーク大佐は演習地域としてルイジアナ州にあった未使用の土地数千エーカーを選んだ[1]。この演習が行われた頃、イギリスでは既にドイツ軍の本土侵攻が予想され、防備が固められていた[2]。演習に際して動員された州兵部隊の一部は、そのまま復員することなく活動を続けた[3]。
演習

演習に参加したおよそ400,000名の将兵は、おおむね同等の戦力を有する2つの軍に分けられた。演習は2つの架空の国、「コトンク」(Kotmk, 赤軍)と「アルマット」(Almat, 青軍)の対戦形式で実施されることとなった。「コトンク」はカンザス、オクラホマ、テキサス、ミズーリ、ケンタッキーの、「アルマット」はアーカンソー、ルイジアナ、ミシシッピ、アラバマ、テネシーの頭文字を取って付けられた。これらの兵士によって、合計19個師団が編成された。
1941年8月から9月にかけて、3,400平方マイル(8,800平方キロメートル)の範囲でコトンク軍とアルマット軍による模擬戦闘が実施された。戦闘地域はサビーン川東部からカルカシュー川まで、北端はレッド川まで広がっていた。
両軍はミシシッピ川に沿って展開し、川の航行権と戦略拠点を巡り戦った[4]。
オマール・ブラッドレーは後にこの演習について回想し、ルイジアナ市民は兵士たちを快く歓迎したと語った。一部の兵士は一般の住宅で寝泊まりしており、ある住宅では足の踏み場もないほど大人数の兵士が収容されていたという。一部の兵士が住宅敷地や作物を粗末に扱ったり、勝手に作物を収穫するなどの問題を起こしたこともあったが、大部分は住民と良好な関係を保っていたという[5]。
演習中に26人の将兵が死亡した。死因の大部分はサビーン川での溺死か自動車事故死だった。稀な死因の例としては、雷に打たれた兵士や、24歳の若さで心臓発作を起こした兵士がいた[6]。
また、フォート・ポークはこの演習のために設置された基地である。その名は南北戦争の際に南軍で指揮を執ったレオニダス・ポーク将軍にちなむ。