ルイ=ガブリエル・スーシェ
ナポレオン麾下のフランス軍元帥(1770 - 1826)
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アルブフェーラ公爵ルイ=ガブリエル・スーシェ(Louis-Gabriel Suchet, 1770年3月2日 - 1826年1月3日)は、ナポレオン戦争期に活躍したフランスの軍人・元帥。姓のフランス語は実際には「シュシェ」と表記する方が近い。
ルイ=ガブリエル・スーシェ | |
|---|---|
| 生誕 | 1770年3月2日 フランス、リヨン |
| 死没 | 1826年1月3日(55歳) フランス、マルセイユ近郊 |
| 所属組織 | |
| 部門 | フランス陸軍 |
| 軍歴 | 1792年–1815年 |
| 最終階級 | フランス元帥 |
| 戦闘 |
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| 受賞 | フランス元帥 |
| 他職業 | 作家 |
生涯
1770年3月2日、リヨンの絹織物製造業者の家に生まれた[1]。いずれは父の後を継ぐはずだったが、1792年にリヨンの国民衛兵に志願して騎兵になった[1]。
1793年のトゥーロン攻囲戦に少佐(chef de bataillon)として参戦、敵将チャールズ・オハラを捕らえる殊勲を挙げた[1]。1796年のイタリア戦役では1796年10月11日にチェレーアで重傷を負った[1]。バルテルミー・カトリーヌ・ジュベールの部下として1797年のチロル戦役に参戦した後、1797年10月に大佐(半旅団の指揮官)に昇進、同年から1798年にかけてギヨーム=マリ=アンヌ・ブリューヌの部下としてスイス侵攻に参戦した[1]。これらの戦役での功績により、旅団将軍に昇進した[1]。同年のエジプト・シリア戦役には参戦しなかったが、8月にブリューヌの参謀長に任命され、イタリア方面軍の綱紀粛正に取り掛かった[1]。1799年7月に師団将軍に昇進、ジュベールの参謀長に任命された後、1800年にアンドレ・マッセナによりその副官に指名された[1]。そして、フランス軍右翼と中央がジェノヴァで包囲されたとき、スーシェは左翼を率いてオーストリア軍の猛攻に耐え、ナポレオン・ボナパルトによるアルプス越え、ひいては6月14日のマレンゴの戦いでの勝利に貢献した[1]。その後もトレヴィーゾ休戦協定が締結されるまでイタリアで戦った[1]。
第三次対仏大同盟戦争ではアウステルリッツの戦い、第四次対仏大同盟戦争ではザールフェルトの戦い、イエナの戦い、プウトゥスクの戦い、オストロウェンカの戦いに参戦して名声を上げ、1808年3月19日に伯爵に叙された[1]。同年にジュリー・クラリー(ジョゼフ・ボナパルトの妻)の姪と結婚した後、スペイン戦線に転戦、サラゴサ包囲戦を経てアラゴン方面軍の指揮官に任命された[1]。このときアラゴン地方の統治も任され、その安定に尽力した[1]。軍事面でも1809年6月14日のマリアの戦いでホアキン・ブレイク率いるスペイン軍を殲滅、1810年4月22日のリェイダ包囲戦でエンリケ・オドンネル率いるスペイン軍に勝利して、1811年7月8日にフランス元帥の称号を与えられた[1]。さらに1812年のバレンシア包囲戦にも勝利して、アルブフェーラ・ダ・バレンシア公爵(duc d’Albufera da Valencia)に叙された[1]。
フランス軍が敗北を重ね、戦線が崩壊した時期にも耐え抜いたが、やがてフランスに撤退して、ニコラ=ジャン・ド・デュ・スールトによる防衛戦に参戦した[1]。第一次王政復古にあたり、スーシェは1814年6月14日に新王ルイ18世によりペール・ド・フランスに叙されたが、百日天下でナポレオンに味方して、アルプス方面軍を率いたことにより1815年7月24日に剥奪された[1]。
晩年は半島戦争に関する回想録を執筆したが、1826年1月3日にマルセイユで死去したときにはまだ完成しておらず、死後に部下だったサン=シール・ニュグが草稿を編集して、1829年から1834年にかけて2巻で出版した[1]