1902年フランス のトゥーロン に生まれる。1916年までヨーロッパで暮らし、イギリス ニューカッスル・アポン・タイン の王立学校およびフランス モントルー のコレージュ・ナシオナルに学んだ。1917年ブラジルに渡り、建築を国立美術学校 (Escola Nacional de Belas Artes)で専攻した。在学中にル・コルビュジエ の影響を強く受けた。
1924年に学校を卒業し、初期は折衷主義 の作品を手がけるが、1929年にモダニズムへと傾倒、1930年にはロシア生まれのブラジル人 建築家グレゴリー・ワルシャヴィチクと共同で美術学校を設立。 ただし教育方針をめぐり教授陣と全学生の反発をまねき、結局コスタは1年後に辞職することになる。
1937年にロドリゴ・メーロ・フランコ・デ・アンドラデの下で新たに作成された国立歴史芸術遺産会SPHAN (Serviço do Patrimônio Histórico e Artístico Nacional)に加わり、会長ポストを孫娘マリア・エリーザ・コスタによって引き継がれるまで引き受け、引退まで会に参加するが、このポスト在任中、地方に対し国の要人としての立場から、多くの論争を招くような決定にかかわるようになってしまう。
ブラジル遺産会の長として、コスタは建築や都市施設などの歴史遺産の保存に関して適正な判断が要求されたが、彼個人の指向と政治的陰謀が技術的な判断の障害になる。その結果、1975年に、パラシオ・モンロー(1906年に建てられたブラジル上院議会堂の所在地)のランドマーク条例の調印拒否によって、周知の醜聞を引き起こした。ビルは地下鉄の建設のために取り壊される予定であったが、社会市民とメディアの紛糾に直面し、建設会社はビルを保存するために地下鉄線を移動させる。しかしながら、画期的な判断による努力は否定的な立場をとるコスタにより水泡となり、開発者はその後ビルを完全に破壊することになる。
この歴史遺産・芸術的に非常に貴重な建築に対するルシオ・コスタの態度は、リオデジャネイロ州 にのこる由緒ある建物の損失を引き起こしたが、その態度の形成には2つの事由が挙げられる。1つは折衷主義建築に対する典型的なモダニスト的憎悪が働いたこと。もう1つは、より一般的な見解ならば、コスタは臆面もなく他の時ならいつでもポルトガル統治時代の遺産保存グループを支持したであろうが、パラシオ・モンローに関しては、デザイナーに下積み時代ライバルのひとりであった者の息子がいたことである。
コスタのこの態度は、建築を学ぶ若い遺産保存論者にも影響したために、ドイツ や日本 、イタリア人 の移民建築遺産などを含む19世紀から20世紀初頭の建築の多くが、1960年代と1970年代の都市再開発で失われてしまった。
コスタによるブラジリアの計画図
1956年、ブラジルの首都ブラジリア のコンペに応募し入選した。彼の仕事の中で、ブラジリアのパイロット・プラン(飛行機型都市) (ポルトガル語版 ) は最も有名なもので、1957年に実際に計画・設計されて、1958年から1960年に渡って建設された。
ほかに建築作品では、1939年、オスカー・ニーマイヤー と共に設計した、ニューヨーク博覧会 のブラジルのパビリオン 、1948年リオの住宅地パークギール、エドゥアルド・ギンレ公園集合住宅群(1952年まで)、1948年のノバフリブルゴ、パルク・サオ・クレメンテなどがあり、近代様式的なモダニズムの建築作品、特にル・コルビュジエとの仕事でも、コスタは伝統的なブラジル的要素を効果的に取り入れている。ほかにイタリア ・ミラノ のLinate空港の近くにあるビルEdificio Montedoriなどがある。
またブラジリアとならんで特に評価されている作品に、1936年から1943年にかけてル・コルビュジエ、ニーマイヤーおよびロバート・ブール・マルクス と共に設計されたリオの教育・健康省があるビル(Gustavo Capanema Palace)がある。
この建物は1936年に、設計コンペが開催され、折衷主義者のデザインが当選するが、審査員だったコスタはコンペ結果を廃棄して、干渉できないように政府内で政治家のコネを利用し、代わりに自分で率いた新チーム、ル・コルビュジエ、ロベルト・ブラザースとコスタのインターンであった若き建築家オスカー・ニーマイヤーといった面々により実施。実際はコスタとル・コルビュジエとで思想や考えの不一致がおきて、プロジェクトリーダーがはっきりせず、設計はだらだらと続いた。
1998年、リオデジャネイロ で死去した。