ルワンダ虐殺における初期の出来事
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ルワンダ虐殺における初期の出来事では、1994年4月6日に発生したルワンダ大統領ジュベナール・ハビャリマナとブルンジ大統領シプリアン・ンタリャミラの同時暗殺事件から、続く数日のうちにルワンダ虐殺が勃発するまでの間に発生した出来事を記述する。両大統領の暗殺は大量虐殺を触発した引鉄であり、結果として凡そ80万人と推計されるツチと穏健派のフツが殺害された。その暗殺事件直後の数日間のうちに様々な鍵となる出来事が発生し、後続した虐殺事件の道筋が決定付けられた。これには次のようなものが含まれた:
- 暗殺とその直後の詳細は、別記事ハビャリマナとンタリャミラ両大統領暗殺事件を参照。
1994年4月6日午後8時20分(UTC午後6時20分)頃、ルワンダ大統領ジュベナール・ハビャリマナをはじめルワンダ軍(FAR)(当時。現ルワンダ国防軍)参謀総長デオグラティアス・ンサビマナ他の有力者を乗せた旅客機がキガリ国際空港に着陸しようとするところを撃墜された。国防相オーギュスタン・ビジマナは陸軍情報部長のアロイス・ンティウィラガボを伴ってカメルーンで会合に出席中だった。墜落から凡そ1時間半から2時間後、キガリの軍司令部に居合わせた将校は後任の参謀総長を選ばねばならないことに気付き、重苦しい雰囲気で会議を開いた。まもなく国防省の官房長テオネスト・バゴソラ大佐が現れ、その会合の議長を務めるのは彼の責務だと述べた。バゴソラは軍人としての評価は低かったが、政府与党であるMRDNとの政治的コネによってその地位に就いていた。ある大佐は国家警察長官のオーギュスタン・ンディンディリイマナ(en)少将の方がふさわしいと提案したが、ンディンディリイマナは辞退し、一部の将校を驚愕させた[1]。
多くの者は権力の空白状態が生じることを危惧していた。アガート・ウィリンジイマナ首相は大統領職務の代行順位として法律上筆頭にあったが、殆どの将校は彼女に統治能力は無いと信じており、バゴソラは彼らが彼女の指導下に入るという選択肢を却下した。アルーシャ協定に従って行動すべきかも議論されたが、その場合は叛徒であるルワンダ愛国戦線(RPF)と今後について協議する必要があった。バゴソラは軍が政権を握るべきだと提案したが、賛同したのは国防省財務局長のシプリアン・カユンバ中佐ただ一人だった。殆どの将校はこれがクーデターに見えてしまうことは避けたいと必死だった。やがて誰かが、協定は依然として有効であり国連も国内に健在だと指摘した。将校たちは、国際連合ルワンダ支援団(UNAMIR)に接触してUNAMIRの軍事司令官であるロメオ・ダレール将軍をこの会合に招き、クーデターが進行している訳では無いことを示そうということで合意した[2]。尤も、フィリップ・ゴーレイヴィッチはこのときの状況を「フツ至上主義党のクーデター」だと述べている[3]。
ウィリンジイマナ首相と穏健派フツの暗殺
4月6日から7日にかけての夜、バゴソラ指導下のルワンダ軍メンバーは当時UNAMIR司令官だったロメオ・ダレール将軍と白熱した討議を交わした。UNAMIRは平和維持任務に加えてルワンダの首相に軍事力と司法権力両面について支援を提供していた。
ルワンダ首相アガート・ウィリンジイマナは、翌朝国営ラジオ局から声明を流し沈静化を訴えかけようと計画した。ダレール将軍は彼女をラジオ局まで護衛するよう平和維持部隊からガーナ兵5名とベルギー兵10名を派遣した。ところが、その朝大統領警護隊がラジオ局を管理下に置いたため、ウィリンジイマナは演説を断念せざるを得なくなった。更にその日、大統領警護隊は彼女とUNAMIRのベルギー人平和維持要員10名を暗殺した。午後9時、ダレールはベルギー人が殺されたこととガーナ人がフツ勢力によって助命されたことを知った。
アルーシャ協定を支持していた多数の穏健派フツ有力者が後に暗殺された。協定に基づく合同政府の暫定首相フォスタン・トゥワギラムングの命もまた狙われたが、これはUNAMIRの努力により阻止された。
ベルギー人の青ヘルメット10名の殺害

大統領警護隊は首相であるウィリンジイマナを護衛していたUNAMIRの青ヘルメット(平和維持要員)15名を捕えた。うち5名はガーナ人でありすぐに釈放された。残る10名のベルギー人は拷問されマシェットで殺害された。
ベルナール・ントゥヤハガ少佐は2007年に殺人罪で有罪とされた。スコット・ピーターソンは著書Me Against My Brother の中でこのときの野蛮な殺害状況を次のように記述している。
彼らは逃げられないようにアキレス腱を切られ、そしてベルギー兵たち(彼らは皆一介の兵卒だったが)、は去勢され切り取った外性器を喉に詰め込まれて窒息しながら死んだ[4]。
バゴソラとその側近たちは、ダレール将軍に対し、"ラジオ放送が大統領機撃墜の首謀者はベルギー人たちだと糾弾しているので、ベルギー人は急いで退去した方が良い"、と即座に申し入れた。これらの糾弾が大統領警護隊の制御不能な大きな怒りに繋がっていた。1994年1月に、ダレール将軍は「ジャン=ピエール」と呼ばれる情報提供者から、UNAMIRの主力を成すベルギー兵をUNAMIRから脱落させるためにベルギー人を攻撃する計画がある、と伝えられていた[5]。
ベルギーとフランスによる外国人居住者の国外退去
フランスとベルギーはそれぞれ軍を投入して2つの異なる国外退去作戦を実行した。詳細は別記事ルワンダ虐殺における国際社会の動向を参照。フランスはまた有力者やハビャリマナ政権の官僚の家族、大統領孤児院の子供たちなども国外に脱出させた。
これらの国外退去は後に2つの大きな議論を巻き起こした。1つは近隣に存在した欧米兵力の介入によりジェノサイドを防げなかったかというものである。当時、キガリ南方200キロのブルンジにはアメリカの兵力が存在しており、更に多数の西側兵力がルワンダまで飛行機で数時間以内の場所に存在していた。これらの部隊の当事者は、彼らが投入されればキガリを制御下に取り戻せたし、装備が嘆かわしいほど不足していたUNAMIRを十分支援できた筈だという見解で一致している。もう1つの議論は、危機が迫っていたツチの緊急避難にはほぼ全く手が貸されなかったという点についてである。西側諸国では唯一ベルギーのみがツチの脱出に関わった。これらのごく僅かなツチは、脱出するグループに交渉を通じて加わるかまたはその中に紛れ込むことで難を逃れた。
暫定政権の構成
首相であるウィリンジイマナの暗殺後、新政権が作られた。そこで首相となったジャン・カンバンダは後のルワンダ国際戦犯法廷(ICTR)で最初に訴追され、有罪を認めた。国連報告の 14.4節から14.8節を参照。この政権はジェノサイドを指導したことで特徴付けられる。ICTRはこの大半のメンバーに有罪を宣告し、残りもその途上にある。この政権を巡っては、大統領警護隊を制御下に置いたバゴソラ大佐と、文民政府を望んだルワンダ軍部の間で主導権争いがあったらしい。結果として政権は状況を鑑みた妥協の産物となり、バゴソラは軍政を断念しつつ、ツチの抹殺に向けてフツ・パワー支持の有力者から成る文民政権を「用意」(という言葉が国連との合意時に用いられた)した。