ルーマニア王国
1881年から1947年までのルーマニアの政体
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ルーマニア王国(ルーマニアおうこく、ルーマニア語: Regatul României)は、1881年3月13日に、ルーマニア公国の大公カロル1世が国王に即位して成立した王国である[1][2]。1945年5月8日の第二次世界大戦の敗戦とソビエト連邦による占領によって崩壊し、1947年12月30日には君主制が廃止され、法的に消滅した[2]。
| ルーマニア王国 | |||||
|---|---|---|---|---|---|
| Regatul României | |||||
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ルーマニア王国の位置(1939年) | |||||
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国の標語:Nihil sine Deo 神なしでは何もない | |||||
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国歌:Marș triumfal 凱旋行進曲 (1881年 - 1884年) Trăiască Regele 国王万歳 (1884年 - 1947年) 演奏のみ | |||||
| 公用語 | ルーマニア語 | ||||
| 首都 | ブカレスト | ||||
| 国王 | |||||
| 1881年 - 1914年 | カロル1世 | ||||
| 1914年 - 1927年 | フェルディナンド1世 | ||||
| 1927年 - 1930年 | ミハイ1世 | ||||
| 1930年 - 1940年 | カロル2世 | ||||
| 1940年 - 1947年 | ミハイ1世(復位) | ||||
| 首相 | |||||
| 1881年 - 1881年 | イオン・ブラティアヌ | ||||
| 1940年 - 1944年 | イオン・アントネスク | ||||
| 1945年 - 1947年 | ペテル・グローザ | ||||
| 変遷 | |||||
| 王政移行 | 1881年3月13日 | ||||
| トリアノン条約 | 1918年12月1日 | ||||
| ソビエト連邦による占領 | 1945年5月8日 | ||||
| 一党独裁制に移行 | 1947年12月30日 | ||||
| 現在 |
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| ルーマニアの歴史 | |
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| ルーマニア革命 (1989年) | |
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歴史
独立
長らくオスマン帝国の宗主下に置かれていたルーマニアであったが、ワラキアとモルダヴィアの連合公国から発展したルーマニア公国が1866年に憲法を制定した後、1877年5月9日にオスマン帝国宗主権下からの独立を宣言。翌年のサン・ステファノ条約およびベルリン条約にて列強の独立承認を受け、1881年に大公カロル1世は国王に即位。名実共に独立国としてのルーマニア王国が成立した。
1912年、バルカン諸国とオスマン帝国の間で第一次バルカン戦争が始まったが、ルーマニアは中立を維持した。その戦後処理をめぐる対立で勃発した第二次バルカン戦争では、ルーマニアはブルガリア王国に侵攻し、ブカレスト条約によって南ドブロジャを獲得した。
第一次世界大戦
第一次世界大戦では、連合国側で遅れて参戦しルーマニア戦線を構築するが中央同盟国に敗北、ブカレスト条約に調印しドブロジャを割譲するが、ヴェルサイユ条約によりブカレスト講和条約は破棄され、1920年6月4日にトリアノン条約を締結してブコビナ、トランシルヴァニア、ベッサラビア、そして一度は失ったドブロジャを獲得し、領土を2.5倍、人口を3倍にさせて大ルーマニアを実現した。
戦間期
しかし大戦後、ロシア革命の影響によりルーマニアでも共産主義勢力が伸長。コルネリウ・コドレアヌ率いる鉄衛団は、その原因を国内のユダヤ人にあると考え、反共主義・反ユダヤ主義を掲げて支持を広げ議会で多数の議席を占めるようになる。国王カロル2世は彼等の影響力を嫌い、1938年政府を解散し自身の独裁体制を敷いた。
第二次世界大戦
1940年、ルーマニアを支持していたフランスがドイツに降伏。その隙をついたソビエト連邦が、独ソ不可侵条約の裏条項を理由にルーマニアに最後通牒を突きつけ、ベッサラビアを占領した。だが、ソ連は同条項に違反してブコヴィナ北部も占領した(詳細)ため、ドイツはソ連へと不信感を抱き始めた。ドイツは石油の輸入をルーマニアのプロイェシュティに依存していたため、ルーマニアがソ連の影響下に置かれる事態を阻止したがっていた。
そのため、ドイツはルーマニアへの影響力を拡大するべく、ルーマニアとハンガリー王国の間のトランシルヴァニアを巡る領土問題を解決する事を目指して、両国を仲裁。第二次ウィーン裁定が行われ、トランシルヴァニア北部はハンガリーへと譲渡された。さらに、クラヨーヴァ条約によってドブロジャ南部はブルガリアに割譲された。
ルーマニア国民による、周辺諸国に次々と領土を割譲したカロル2世に対する不満は頂点に達した。こうしてカロル2世は、軍人のイオン・アントネスクによって国外追放され、アントネスクの影響下でカロル2世の嫡男ミハイ1世が即位。ルーマニアの要請により、10月12日にはドイツ軍がブカレストに駐留を開始。その1ヶ月後の11月23日、ルーマニアは日独伊三国同盟に加盟した。
1941年6月22日にはドイツなどと連名でソ連に宣戦を布告(独ソ戦)、南方を中心として部隊を拠出する。序盤の戦況はドイツやルーマニアら枢軸国にとって有利に進んだ。ルーマニアはソ連に奪われた領土を奪還。さらにはドイツとティラスポリ協定を締結し、トランスニストリア総督府を設置した。
しかし1943年、スターリングラード攻防戦で敗北したことにより戦況が逆転。また同年、アメリカ合衆国陸軍航空軍による爆撃も受けた(タイダルウェーブ作戦)が、撃退した。
1944年、ソ連はルーマニア本土へと逆侵攻(ヤシ=キシナウ攻勢)。ドイツと共倒れする事を危惧したミハイ1世はアントネスクを解任(ルーマニア宮廷クーデター)。連合国側に鞍替えし、ナチス・ドイツやハンガリーと戦火を交えた。
滅亡
1945年、第二次世界大戦は終戦。
パリ平和条約により、ルーマニア王国は一時は奪還していたブコビナ北部とベッサラビアを含めて、ソビエト連邦に併合されて崩壊した[注釈 1]。そして、ソ連軍の強い圧力の下、1947年12月30日には、王政は廃止され、ルーマニア共産党の一党独裁によるルーマニア人民共和国が正式に成立した。
領土の変換
文化
政教
制度
民族
歴代君主
| 代 | 名前 | 在職期間 |
|---|---|---|
| 1 | カロル1世 | 1881年 - 1914年 |
| 2 | フェルディナンド1世 | 1914年 - 1927年 |
| 3 | ミハイ1世 | 1927年 - 1930年 |
| 4 | カロル2世 | 1930年 - 1940年 |
| 5 | ミハイ1世(復位) | 1940年 - 1947年 |