ネグロス島シライ生まれ[2]。セント・トマス大学音楽学校に進学するも、途中で建築科に編入学する[2]。27歳の時に設計した教会礼拝堂の設計で注目を浴び[2]、それ以来、数々の公共建築を手がけ、国内外で高く評価される[2]。建築のみならず、現代舞踊や陶芸など、芸術分野を横断する活動でも知られる[1][2]。
「フィリピン建築とは、東洋と西洋というあまりにも異なり相対する2つの文化の大きな流れが収斂された産物である」という信条を持ち[2]、欧米への留学が不可欠とされてきたフィリピン建築界において、フィリピンを離れなかった稀有な建築家であった[2]。
1994年、マカティにて死去[要出典]。