レイモンド・リノシエ
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1897年3月25日にリヨンに誕生する。医学部の教授だったジョルジュ・リノシエ(1857年-1923年)の3人の娘の末っ子であった。リノシエ家はフランシス・プーランクの一家と交流があり、雨の時期にはジョルジュが仕事をしていたパリやヴィシーで会うなどしていた。1917年10月にリノシエは当時オデオン通りの「本の友の家(La Maison des Amis des Livres)」で書店を営んでいたアドリエンヌ・モニエに連絡を取った。当時20歳で法律学校の学生だった彼女は、自作の小説『Bibi-la-Bibiste』を印刷してくれる所を探していた[2]。
アドリエンヌ・モニエは彼女をポール・ビロールの妻に引き合わせた。著作は内密に出版され、モニエの書店の常連である仲間内の小さなサークルで評判となった。この作品はエズラ・パウンドの賛辞を付されて『The Little Review』誌(1920年9-10月[3])に再掲されている[注 1]。
第一次世界大戦後に法律を学び始めたリノシエは1926年にパリの弁護士会に入会するが、間もなく東洋学者の道を志し、古文書保管人兼司書としてギメ東洋美術館に勤務した。彼女はジャン・プルジルスキの指導の下、仏教考古学の文献目録をまとめたほか、『Mythologie asiatique illustrée』(アジア神話図版)ではクレマン・ウアード、エレナ・ド・ヴィルマン=グラボフスカ、ジョゼフ・アッカン、アンリ・マルシェ、アンリ・マスペロと共同作業を行い、はしがきはポール=ルイ・クーシューによって書かれた。
1930年1月30日に没した。
フランシス・プーランクからはホルン、トランペットとトロンボーンのためのソナタの献呈を受けている。