レオン・フォシェ
From Wikipedia, the free encyclopedia
生涯
1803年9月8日、オート=ヴィエンヌ県リモージュで生まれた[1]。9歳のときに家族とともにトゥールーズに引っ越し、そこで学校に通った[1]。1816年に両親が別居したとき、父がフォシェに学校をやめて働かせようとしたが、フォシェは断り、学校に通いながら刺繍や裁縫といった内職で家計を支えた[1]。その後はパリに出て、家庭教師を務めながら考古学と歴史学を学んだ[1]。
1830年の七月革命をきっかけに自由主義を支持するジャーナリストになり、1830年から1833年まで『ル・タン』紙の編集部で働き、『ル・コンスティテュショネル』紙の編集者を短期間務めた[1]。編集者を退任した後、1834年に『ル・クーリエ・フランセ』紙の編集部に入り、1839年から1842年まで編集者を務めた[1]。
自由主義者としては穏健派に属し、急進派に対しより穏健な政策を採用するよう主張した[1]。経済ではドイツ関税同盟への対抗としてロマンス諸語圏の関税同盟を提唱したが、実現する可能性が皆無だったため、1842年にその代わりとしてフランスとベルギーの関税同盟を提唱した[1]。1843年にイギリスを訪れて社会制度を調査し、『両世界評論』で結果を発表したのち1845年に『Études sur l’Angleterre』(2巻)として刊行した[1]。1847年にボルドーで自由貿易を提唱する団体を発足させ、同年にランスから代議院議員に選出された[1]。
1848年のフランス革命の後、マルヌ県から憲法制定国民議会議員に選出された[1]。憲法制定国民議会では労働時間の制限、死刑の廃止など当時の共和主義者が主張する政策に反対した[1]。内閣にも入り、公共事業大臣、内務大臣を歴任したが、選挙介入を目的として県知事に送った手紙が議会に露見し、1849年5月14日に辞任を余儀なくされた[1]。同年にフランス人文院会員に選出された[1]。1851年に再び内務大臣に就任したが、大統領ルイ・ナポレオンが男子普通選挙への支持を表明すると辞任し、1851年12月2日のクーデターの後は官職就任を拒否した[1]。
1854年に休養のためにイタリアを訪れたが、帰国してパリに向かっていたとき、マルセイユで腸チフスにかかり、1854年12月14日に同地で死去した[1]。死後の1856年に著作集が『Mélanges d’économie politique et de finance』(2巻)として出版され、1875年に議会演説集が『Léon Faucher, biographie et correspondance』第2巻に収録された[1]。