レクイエム (アフマートヴァ)
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『レクイエム』(Реквием)は、ロシアのアンナ・アフマートヴァ(1889-1966)の代表作の一つである連作長詩。夫と息子の逮捕、収容所送りを題材としている。
最初に書かれた詩は1935年、最後に書かれたエピグラフは1961年の作である。彼女はこれを発表できるとは、1962年まで考えていなかった。しかし「雪どけ」時代にドイツで出版され、ペレストロイカ時代にソ連国内でも出版された。
- アフマートヴァは第3-5詩集として1917年『白い群れ』1921年『おおばこ』1922年『主の年1921年』を発表。
- 1921年 元夫である詩人ニコライ・グミリョフが、反革命罪で銃殺された。
- 1922年 作家エヴゲーニイ・ザミャーチン逮捕、同年釈放(1931年国外移住、1937年フランスで死)
- 1922年 ソビエト連邦樹立
- 1925年 党中央委員会決議でアフマートワの詩は反革命的とされ、以後発表できず。
- 1925年 詩人セルゲイ・エセーニン自殺
- 1930年 詩人ウラジーミル・マヤコフスキー自殺
- 1934年 詩人で友人のオシップ・マンデリシュターム逮捕(1938年収容所で死亡)
- 1935年 夫ニコライ・プーニン[注 1]逮捕、アフマートヴァの嘆願により10日で釈放。(1949年に再逮捕され、1953年に獄死)
- 1938年 息子レフ・グミリョフ逮捕、5年間のシベリア流刑。(1949年に再逮捕され、1956年再釈放)
- 1939-1945年 第二次世界大戦
- 1941年 詩人マリーナ・ツヴェターエワ自殺
作成経過
作成途中の原稿は全て廃棄された。
アフマートヴァの年下の友人、リディヤ・チュコフスカヤ(文学者コルネイ・チュコフスキーの娘)の『アンナ・アフマートヴァ覚書』の序文には、次のような経過が書かれている。 (木下晴世訳[2] )
アンナ・アンドレーエヴナ[アフマートワ]はうちに来るとやはり囁き声で『レクイエム』の詩を読んでくれたが、噴水邸の自分の部屋では囁くことさえためらった。 突然話の最中に黙り込むと、私にむかって天井と壁に目配せして紙切れと鉛筆をもつ。それから大きな声で「お茶は要りませんか?」とか「とてもお疲れのようね」と当たり障りのないことを言って、それから紙に走り書きをして、私に差し出す。詩を読んで記憶すると、私は黙って彼女に返す。「漸く秋になりましたね」と大きな声でアンナ・アンドレーエヴナが言い、マッチを擦って灰皿で紙を燃やす。それは手とマッチと灰皿がおこなう儀式、美しく痛ましい儀式だった。
構成
詩題は木下訳による。
| エピグラフ | 1961年 |
| 序にかえて | 1957年4月1日 レニングラード |
| 献辞 | 1940年3月 |
| 序曲 | 1940年1月31日 |
| 1 | 1935年 |
| 2 | 1938年 |
| 3 | 1939年 |
| 4 | 1938年 |
| 5 | 1939年 |
| 6 | 1939年 |
| 7 宣告 | 1939年夏 |
| 8 死に向って | 1939年8月19日 噴水邸[注 2] |
| 9 | 1940年5月4日 噴水邸 |
| 10 磔刑 I | 1938年 |
| II | 1939年 |
| エピローグ I | |
| II | 1940年3月10日頃 噴水邸 |
Wikilivresには記事に関連する原文があります Анна Андреевна Ахматова
最初の詩
アフマートヴァ生前の、ソ連国内での発表
第二次世界大戦中は、国家の愛国宣伝のために、言論統制がやや緩んだ。アフマートヴァも一時的に詩の発表を許された。以下は主に木下 [2]による。
- 『レクイエム』の第7歌は1940年の雑誌『星』に発表された。(ただし詩の題は隠した。)
- 第9歌の前半は1943年にタシケントでの『作品集』に発表された。
- 第1歌はリガの、第2歌は1943年のベルリンのロシア語新聞に、戦争中に発表されたという[注 4]。
1946年のジダーノフ批判により、アフマートヴァはまた詩作発表できなくなったが、1956年のスターリン批判で、アフマートヴァも名誉回復され、1958年から彼女の詩集がまた発刊されるようになった。
- アフマートヴァ生前最後の詩集、『時の疾走』(1965年)内に、第10歌の後半が収録された。