レジナルド・ポール

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レジナルド・ポール(Reginald Pole, 1500年3月 – 1558年11月17日)は、イングランド枢機卿であり、イングランド最後のカトリック大司教である。対抗宗教改革期において、イングランドの宗教的状況に深く関与した。

レジナルド・ポールは1500年3月、スタッフォードシャーのストートン城で生まれた。父はリチャード・ポール卿、母はソールズベリー伯爵夫人マーガレット・ポール(旧姓プランタジネット)である。母方の祖父母はクラレンス公ジョージ・プランタジネットイザベル・ネヴィルであり、ポールはエドワード4世およびリチャード3世の又甥にあたる血筋であった。幼少期にシーン修道院で教育を受け、1512年にはオックスフォード大学モードリン・カレッジに入学し、1515年に学士号を取得した。その後、ヘンリー8世の援助を受け、1521年から約5年間、イタリアパドヴァ大学人文主義神学を学んだ。この間、ルネサンス学者たちと交流を深め、学識を磨いた。

ヘンリー8世との対立と亡命

イングランド帰国後、ポールはヘンリー8世の顧問の一人となるが、国王キャサリン・オブ・アラゴンとの結婚の無効を求め、ローマ教皇庁からの離脱を進める中で、ポールは国王の行動に反対の立場を取った。特に、ヘンリー8世イングランド教会の首長となることに強く異議を唱え、1536年には教会の統一を擁護する論文『教会の統一の擁護について』(Pro ecclesiasticae unitatis defensione)を著した。この論文はヘンリー8世を激しく批判する内容であり、国王の怒りを買ったポールは自己亡命を余儀なくされ、フランスイタリアで生活することとなった。この対立の結果、彼の家族の多くがヘンリー8世によって処刑される悲劇に見舞われた。

枢機卿としての活動

亡命中であった1536年12月22日、ポールは教皇パウルス3世によって枢機卿に任命された。これはポールの意に反するものであったが、彼はその後、対抗宗教改革の主要人物の一人としてローマ教皇庁に仕えることとなる。彼は教会改革に関する重要な文書の作成に携わり、1542年にはトリエント公会議議長を務める3人の教皇使節の一人に選ばれた。公会議の開催が遅れる中、ポールは「公会議について」(De Concilio)という論文を執筆した。1549年の教皇選挙では、新教皇の有力候補と目され、あと2票で教皇に選出されるところであったが、最終的にはユリウス3世が選ばれた。

メアリー1世の治世とイングランドへの帰還

晩年と死

参考書籍

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