レジナルド・ポール
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レジナルド・ポールは1500年3月、スタッフォードシャーのストートン城で生まれた。父はリチャード・ポール卿、母はソールズベリー伯爵夫人マーガレット・ポール(旧姓プランタジネット)である。母方の祖父母はクラレンス公ジョージ・プランタジネットとイザベル・ネヴィルであり、ポールはエドワード4世およびリチャード3世の又甥にあたる血筋であった。幼少期にシーン修道院で教育を受け、1512年にはオックスフォード大学モードリン・カレッジに入学し、1515年に学士号を取得した。その後、ヘンリー8世の援助を受け、1521年から約5年間、イタリアのパドヴァ大学で人文主義や神学を学んだ。この間、ルネサンスの学者たちと交流を深め、学識を磨いた。
ヘンリー8世との対立と亡命
イングランド帰国後、ポールはヘンリー8世の顧問の一人となるが、国王がキャサリン・オブ・アラゴンとの結婚の無効を求め、ローマ教皇庁からの離脱を進める中で、ポールは国王の行動に反対の立場を取った。特に、ヘンリー8世がイングランド教会の首長となることに強く異議を唱え、1536年には教会の統一を擁護する論文『教会の統一の擁護について』(Pro ecclesiasticae unitatis defensione)を著した。この論文はヘンリー8世を激しく批判する内容であり、国王の怒りを買ったポールは自己亡命を余儀なくされ、フランスやイタリアで生活することとなった。この対立の結果、彼の家族の多くがヘンリー8世によって処刑される悲劇に見舞われた。