レチツァ (ホメリ州)
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レチツァ | |||
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10月広場(レチツァ) | |||
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| 座標:北緯52度21分50秒 東経30度23分41秒 / 北緯52.36389度 東経30.39472度座標: 北緯52度21分50秒 東経30度23分41秒 / 北緯52.36389度 東経30.39472度 | |||
| 国 |
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| 州 | ホメリ州 | ||
| 地区 | レチツァ地区(Rechytsa District) | ||
| 創設 | 1213年 | ||
| 人口 (2010) | |||
| • 合計 | 64,731人 | ||
| 等時帯 | UTC+2 (EET) | ||
| • 夏時間 | UTC+3 (EEST) | ||
| 郵便番号 |
247500 | ||
| 市外局番 | +375 2340 | ||
| ナンバープレート | 3 | ||
| ウェブサイト | Official website | ||
レチツァ(ベラルーシ語: Рэчыца、ロシア語: Речица)はベラルーシ・ホメリ州レチツァ地区(ru)の市(Горад / ホラド)である。同地区の行政中心地であり、ベラルーシの市の中でも古い歴史を持つ市の1つである。市の名は川を意味するРекаに由来する[1]。
人口
歴史



レチツァに関する史料上の最初の言及は、『グストィンスカヤ年代記(ru)』[6]、あるいは『ノヴゴロド第一年代記』の1213年の項である。この年、ルーシ諸公の1人ムスチスラフが、フセヴォロドに対する遠征軍を起こし、キエフへ向かう途上に、レチツァを陥落させている。11 - 13世紀の間、レチツァはキエフ公国あるいはチェルニゴフ公国に属していた。
14世紀末、レチツァはリトアニア大公ヴィータウタスに接収され、リトアニア大公国領となった。この時期に松の木で城が建設され、以降200年間現存していたが、1654年にコサックによって焼き払われた。
1511年にマクデブルク法が施行された。また1566年にミンスク県(ミンスカス県)が設置されると、レチツァ郡の行政中心地となった[7]。また、パゴーニャ(ru)のあしらわれた軍旗が[注 3]、16世紀より用いられていたことが知られている。この意匠は現代の市章(ページ右側 Infoboxでは印章と表示)にも受け継がれている。
17世紀半ば、ポーランド・リトアニア共和国が戦乱の時代(大洪水時代)に陥ると、レチツァもまた被害を被った。1667年のアンドルソヴォ条約では、レチツァはまだポーランド・リトアニア共和国内に残されたが、1793年の第2次ポーランド分割によって帝政ロシア領に組み込まれた。ロシアのミンスク県に属し[6]、レチツァ郡の行政中心地となった[8]。
1914年の段階で、ユダヤ人は市人口の6割を占めており、また20世紀初頭には5つのシナゴーグがあった[9]。しかし1941年8月23日にナチス軍に占拠された後、多くのユダヤ人がゲットー(レチツァ・ゲットー(ru))に隔離され、殺害された。都市は1943年11月18日に白ロシア戦線によって解放された。
ソビエト連邦(白ロシア・ソビエト社会主義共和国)期末年の1986年、チェルノブイリ原子力発電所事故が起こると、レチツァは放射性降下物による被害を被った。ソビエト連邦の崩壊を経て現在に至る。