ロジャー・メレン
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スタンフォード大学 (M.S.E.E., Ph.D.)
ロジャー・メレン | |
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| Roger Melen | |
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ロジャー・メレン(1986年) | |
| 生誕 | 1946年(79 - 80歳) |
| 教育 |
カリフォルニア州立大学チコ校 (B.S.E.E.) スタンフォード大学 (M.S.E.E., Ph.D.) |
| 職業 | 電子工学者・実業家 |
| 著名な実績 | クロメンコ社共同設立者 |
| コールサイン | WB6JXU |
ロジャー・ダグラス・メレン(Roger Douglas Melen、1946年 - )[1][2]は、アメリカ合衆国の電子工学者・実業家であり、初期のマイクロコンピュータ産業に対する貢献と、工学的な発明で知られている。
メレンは、最も古いマイクロコンピュータ会社の一つであるクロメンコ社の共同創立者である。クロメンコは、カラーグラフィックスシステムを開発し、テレビ放送やアメリカ空軍の作戦計画システムで広く使用された。また、中国で最初に普及したマイクロコンピュータシステムを開発した。また、メレンは、CCDイメージセンサ、超音波イメージングシステム、埋め込み型人工内耳装置、画像処理技術、車両情報システムなどの開発にも多大な貢献をしている。
若い時から、メレンはカリフォルニア州チコの自宅でWB6JXUというコールサインのアマチュア無線局を運営していた。カリフォルニア州立大学チコ校に通い、1968年に電気工学の学士号(B.S.E.E.)を取得した。彼が最初に発表した発明品である、"Beatnote Basher"(ビートノート・バッシャー)というオーディオ・フィルターは、1969年にアマチュア無線雑誌『73』誌に掲載された[4]。メレンはスタンフォード大学大学院に進学した。スタンフォード大学で知り合ったハリー・ガーランドと共同で、『ポピュラーエレクトロニクス』誌に、ホビイスト向けの電子工作に関する記事を6年間にわたり執筆した[5][6][7][8][9]。この間、ガーランドとメレンはUnderstanding IC Operational Amplifiers(ICオペアンプの理解)とUnderstanding CMOS Integrated Circuits(CMOS集積回路の理解)という2冊の本も出版した[10][11]。スタンフォード大学で、1969年に電気工学の修士号(M.S.E.E.)を、1973年に博士号(Ph.D.)を取得した[12]。
メレンは、1972年にスタンフォード集積回路研究所の研究スタッフに招かれ、1974年に同研究所の副所長に就任した。メレンは、固体撮像素子の高画質化において、電荷結合素子(CCD)技術がMOS技術よりも大きな可能性を秘めていることを認識し[13]、目の不自由な人のための読取装置「オプタコン」に応用するためのCCDイメージセンサの開発に取り組んだ[14]。また、CCD技術を医療用超音波イメージングシステムに応用し[15]、重度難聴者のための埋め込み型人工内耳装置の開発も行った[16]。
メレンとガーランドは大学院修了後も『ポピュラーエレクトロニクス』誌への寄稿を続けていたが、これが後の彼らの人生を変える出会いをもたらすことになる。1974年、メレンたちは"Cyclops"(サイクロプス)と名付けたデジタルカメラを設計し、その記事を『ポピュラーエレクトロニクス』に寄稿した。Cyclopsについて議論するためにニューヨークの『ポピュラーエレクトロニクス』の編集部を訪れていたメレンは、そこでMITS社のAltair 8800の試作機を目にした。デジタルカメラCyclopsをAltairから制御するためのインターフェイスの可能性を認識したメレンは、カリフォルニアへ帰る途中でニューメキシコ州アルバカーキに立ち寄り、MITS社の社長・エド・ロバーツを訪ねた[17]。ロバーツは、Altairのサードパーティによる参入を望んでおり、メレンにCyclopsとAltairとのインターフェイスの開発を勧めた[18]。ロバーツはメレンがインターフェイスの開発に取り掛かることができるよう、Altairを速やかにメレンに送ることを約束した[19]。
クロメンコ
『ポピュラーエレクトロニクス』1975年1月号の表紙にMITS社のAltair 8800が登場し、翌月号にはCyclopsが表紙を飾った[20]。メレンはCyclopsをAltairに接続するためのインターフェイスの開発に着手した。CyclopsおよびそのAltairとのインターフェースを販売するために、メレンとガーランドは会社を設立した。2人が大学院生時代に住んでいたスタンフォード大学の寮「クロサーズ記念館」(Crothers Memorial)に因んでクロメンコ(Cromemco)と名付けた[1]。Altairはすぐに成功を収め、これをきっかけにクロメンコは他の製品を開発する機会を得た[21]。
メレンとガーランドが開発した次の製品は、"Dazzler"というAltair用のカラーグラフィックインターフェイスだった。Dazzlerは、『ポピュラーエレクトロニクス』1976年2月号の表紙に掲載された[22]。クロメンコは他にも製品を開発し、さらにはZ80やMC68000を使用したマイクロコンピュータを開発した。クロメンコのマイクロコンピュータは、米国の多くのテレビ局のグラフィック生成に使用され[23]、米空軍の作戦計画システムとして広く展開され[24][25]、中国で広く配布された最初のマイクロコンピュータシステムとなった[26]。メレンは、1975年の創業から1987年のダイナテック社への売却まで、クロメンコ社の研究開発担当副社長を務めた[24]。