ロスコー・パウンド
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1870年、ネブラスカ州リンカーンで生まれた。父はネブラスカの裁判官、母は結婚前は学校の教師をしていた。ネブラスカ大学で植物学を専攻して学士、修士を取得し、卒業後は植物学実験室の助手を務めた。その後ハーバード・ロー・スクールに入学し、1年間法学を学ぶ。なお、彼が生涯において正規の法学教育を受けたのはこの1年間のみである。
ハーバードを去った後は、リンカーンに戻り弁護士として活動する傍ら植物学の研究を続け、植物学で博士を取得した。しかし、ネブラスカ大学法学部助教授に迎えられてからは、法学研究に力を注ぐ。ホームズのプラグマティズム法学、メインの歴史法学、カント、ヘーゲルの法哲学に触れ、従来の英米の法哲学、特に分析法学の伝統に欠けているものを理解し、社会学的法学の開拓を目指す。1906年の講演「民衆が司法に満足していない諸原因について(Causes of the popular Dissatisfaction with the Administration of Justice)」で19世紀の個人主義的法理論がすでに20世紀初頭の社会的現実と乖離していることを指摘し、保守的な法学者に衝撃を与えるとともに、国際的な名声を獲得した。この名声でハーバード・ロー・スクールの教授に迎えられ、社会学的法学に関する研究の成果をハーバード・ロー・レビューで披露した。
超人的な記憶力と天才的な語学力を持ち、ギリシア語、ラテン語、フランス語、ドイツ語、イタリア語、スペイン語、ロシア語を修得して、世界各国の文献を読破した。イェーリング、エールリッヒ、シュタムラー、コーラー、デュギー、サレイユ、ジェニーなどの思想・理論をアメリカに持ちこんだのは彼である。また、頑強な肉体を持ち、彼が学部長の間は、ハーバードのラングデルホールにエレベーターも洗面所も設置されなかった。また、昼食時にはハーバード・スクエアの料理店まで夏も冬も毎日歩き、どんなに寒い日もオーバーを着なかった。90歳を越えてから雪だまりに落ちたが、肺炎にならなかったという。この天才的頭脳と頑強な肉体をもってその数1000を越える著作を残し、単行本と主要論文だけで300を越える。そのライフワークであった社会学的法学の体系は、1911年から40年以上かけて執筆され、1959年に3000ページに達する大著"Jurisprudence"として完成された[2]。
