ロッティンディーン
From Wikipedia, the free encyclopedia
ロッティンディーン
| |
|---|---|
ロッティンディーン | |
イースト・サセックスにおけるロッティンディーンの位置 | |
| 人口 | 14,324人 (2019年)[1] |
| 英式座標 | TQ375025 |
| 単一自治体 | |
| セレモニアル・カウンティ | |
| リージョン | |
| 構成国 | |
| 国 | |
| 郵便地域 | ブライトン |
| 郵便番号 | BN2, BN51 |
| 市外局番 | 01273 |
| 警察 | サセックス |
| 消防 | イースト・サセックス |
| 救急医療 | サウス・イースト・コースト |
| 欧州議会 | サウス・イースト・イングランド |
| 英国議会 |
|
ロッティンディーン(英語: Rottingdean)は、イギリス南海岸のシティ、ブライトン・アンド・ホヴにあるヴィレッジ。ソルトディーンやウッディンディーンなどと接しており、その歴史地区はよく絵葉書の題材とされている。
ロッティンディーンという名は、「ロータ」という男性の名前に由来しているとされる。ロータは450年から500年の間の期間にローマ系ブリトン人を追い出したサクソン人部族のリーダーであった。1086年のドゥームズデイ・ブックにおいて初めてその名が確認された[2]。
行政上の地位
歴史

先史時代
ロッティンディーンには新石器時代の紀元前2500年ごろから人々が住んでいた[5]:1。彼らは樹木や低木を伐採し、大麦などを育てる畑を作って暮らしており、そのような生活は新石器時代から青銅器時代、鉄器時代、ローマ時代、アングロサクソン時代へと続いた[5]:1。また現在ロッティンディーン・ハイツとして知られている地域では、青銅器時代の墳丘墓や土器のかけらなどが出土している。また村の反対側にあるビーコン・ヒルでも1863年に鉄器時代の埋葬跡が見つかった[5]:1。
ローマ人、サクソン人の進入
鉄器時代から続くケルト人の生活様式は西暦43年にローマ人が到着した後もほとんど変わらずに続いていたと思われるが、3世紀の中頃から海岸近くに住む人々はサクソン人の襲撃に脅かされるようになった。当時パニックに陥ったいく人かの裕福なローマ系ブリトン人は、自宅から持ち出した金品を壺に入れ、人里離れた傾斜地に埋めた。そしてそのような財宝の1つがバルスディーンで発掘され、中には275年から287年の間に作られた1,000枚以上のコインが入っていた[5]:2。ローマ人がブリテン島から撤退した後はサクソン人がサセックスに住み始めた。なお、このサセックスという名は「南サクソン人の土地」という意味である。6世紀にはこの南サクソン人がロッティンディーンにも住み始め、その際に人々を率いていたのが村名の由来にもなった「ロータ」である[5]:3。
ノルマン・コンクエスト
それから500年が経った1066年、ノルマン・コンクエストが起こりウィリアム征服王率いるノルマン人が侵攻してきた。ルイス・ディストリクトに含まれるロッティンディーンは近隣の土地を合わせて国王の義弟であるウィリアム・ド・ワーレン伯爵に与えられた[6]:9。1086年のドゥームズデイ・ブックによると、当時は50人から100人の人々がこの地で生活していた[5]:6。
百年戦争中の戦い
百年戦争中の1377年夏、フランス提督ジャン・ド・ヴィエンヌに率いられた120隻の大艦隊による攻撃を受けた[7]。それに先立ってライの港を焼き払い教会の鐘まで奪っていた[8]彼らは、おそらくルイス修道院を略奪するためにロッティンディーンへと上陸した[5]:9。これに対してルイス修道院長は500人を率いてロッティンディーンへと向かった。しかしこれを察知したフランス軍が騎馬隊300名によって待ち伏せをし、イングランド軍は少なくとも100名を失った。ただこの攻撃ではフランス側にも相当な死傷者が出たため、ルイス自体への攻撃は防ぐことができた[7][5]:9–10。これらの戦闘を通じて修道院長は部下のジョン・ファルヴスリー卿、トーマス・シャイン卿、従者のジョン・ブローカスらと共に捕虜となった。戦闘による傷を受けたブローカスはその後死亡したが、それ以外の3名は身代金によって解放された。一方でフランス軍が略奪をし、家や畑に火をつけたため村は甚大な被害を受けた。言い伝えによると恐れた村民は教会へと逃げ込んだが、その教会も焼き討ちに遭い中にいた全員が死亡したという[5]:10。
クエーカー運動の影響
17世紀にはクエーカー運動がロッティンディーンに影響を及ぼし、多くの者がクエーカーとなった。しかし彼らの信条は地元の権威との間に対立を招いた。行政教区の大地主だったニコラス・ベアードはクエーカーとしての信条に基づいて十分の一税を拒み、教区牧師を52年務めたロバート・ベイカーとの間に確執が生じた。ベアードと他のクエーカーたちは何度も投獄され、1659年には十分の一税として牧師がベアードから雄牛12頭、雌牛6頭、種牛1頭を取り上げたという記録が残されている[5]:20。しかしそれでもベアードは十分な財産を有しており、死後はクエーカーのための墓地となる土地を遺した[6]:36。
密輸との関わり
この地の住民が密輸に関わっていたことは、多くの史料から明らかになっている[6]:60。 その内容は、羊毛が輸出され、紅茶、蒸留酒、タバコ、レースなどが輸入されるという双方向のものであった。18世紀後半には密輸の押収が何度も記録されているが、密輸品はロッティンディーンよりも閑散としたソルトディーン・ギャップで荷下ろしされていたと考える。降ろされた密輸品は丘を超え、現在のホワイトウェイズ・レーンを通じてロッティンディンへ一度運び込まれ、そこから内陸部へと輸送されていたということになる[5]:24–25。地元の話をすべて検証することはできないし、村の地下にある秘密通路についての主張をすべて信じることもできないが、18世紀の牧師トーマス・フッカー博士が関与していたという噂は根強く残っている[6]:60。 一方でフッカーは子供の教育に尽力し、豊かな子供も地元の子供も入学できる学校を設立した[6]:65。
この村はかつて狩猟の中心地であり、特に19世紀後半には盛んに行われていた。ブルックサイド・ハントは1902年までこの村を拠点とし、猟犬の群れで野ウサギやキツネを狩っていた[6]:119。
別荘地としての発展
長年農村だったロッティンディーンであるが、18世紀後半からはブライトンを避けた上流階級の人々が訪れるようになった。19世紀後半には美術家のエドワード・バーン=ジョーンズ卿やその甥の小説家ラドヤード・キップリングなどがこの地を拠点としていた[5]。また1920年代に農業が衰退すると農地の多くが建築用に利用され、ソルトディーンを中心に人口が急拡大した[5]:85。拡大した人口に対応するため、1933年にはウッディンディーンが行政教区として独立した[5]:89。
年表
建築物
ザ・ブラック・ハウス
現在は公共住宅となっているザ・ブラック・ハウスはロッティンディーン全体で最も古い建築物だと信じられており、少なくともヘンリー8世が治めていた1513年には建てられていた。かつては「ブラック・ホール」と呼ばれており、そのラウンジは鍛冶場として利用されていた[5]:107。
チャロナーズ
ロッティンディーンにある古いマナー・ハウスの歴史は1450年にまで遡るが、当時の構造物は地下室しか残っていない。最初の領主はトーマス・チャロナーで、のちにビアード家の手に渡った。増築工事は19世紀まで行われ、サンルームの窓に特徴がある。現在の建物は16世紀後半に建てられたもので、密輸用の地下トンネルが隠されていた[9]。
ジ・エルムス
ジ・エルムスは、1897年から1902年にかけて小説家ラドヤード・キップリングが借りていたことで有名である[10]。池に面したザ・グリーンに1750年ごろ建てられ、1785年から1859年まではイングラム家が所有していた[5]:110。記者のロドリック・ジョーンズとその妻イーニッド・バグノルドは1929年にこれを購入し、ホテルにされるのを防いだ[6]:91。第二次世界大戦後はアーネスト・ビアードに貸し出され、その後1975年に売却されるまでバグノルドの娘ローリアン・ダーコートが住んでいた[6]。ロッティンディーン保存協会(現ロッティンディーン・ヘリテージ)は開発の手から守るためにその土地のほぼ全てを購入し、1986年キプリング・ガーデンズを設立した[11]。
ザ・グランジ
当初は牧師館として建てられたザ・グランジは19世紀初頭に牧師トーマス・フッカーが学校として増築したが[6]:91、その後芸術家のウィリアム・ニコルソン卿が購入し、第一次世界大戦前に住んでいたときに「グランジ」と改名した[12]。1920年代には、ロンドンの弁護士サー・ジョージ・ルイスのために、エドウィン・ラッチェンスがこの建物を修復し、ガートルード・ジーキルが庭のデザインに影響を与えた[13]。またこの際チャールズ・ルイスがこれを購入している[14]:54。現在はロッティンガム・ヘリテージが管理する美術館、博物館と、ブライトン・アンド・ホヴ・カウンシルが管理する図書館、観光案内所が入居している[12]。