ロニー・レーン
イギリスのシンガーソングライター (1946-1997)
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ロナルド・フレデリック・レーン(英: Ronald Frederick Lane、1946年4月1日 - 1997年6月4日)は、イングランド出身のミュージシャン、シンガーソングライター、音楽プロデューサー。愛称は「プランク」(Plonk)[1]。
| ロニー・レーン | |
|---|---|
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演奏するロニー・レーン | |
| 基本情報 | |
| 出生名 | Ronald Frederick Lane |
| 別名 | Plonk |
| 出身地 |
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| 死没 |
1997年6月4日(51歳没) |
| ジャンル | ロック、R&B、サイケデリック・ロック、フォークロック |
| 職業 | ミュージシャン、シンガーソングライター、音楽プロデューサー |
| 担当楽器 | ベース、ギター、ボーカル |
| 活動期間 | 1964年 - 1992年 |
| レーベル | デッカ、イミディエイト、ワーナー・ブラザース、アイランド、A&M、アトランティック |
| 共同作業者 | スモール・フェイセス、フェイセズ、スリム・チャンス、ピート・タウンゼント、ロン・ウッド |
| 公式サイト |
www |
| 著名使用楽器 | |
| ゼマティス | |
スモール・フェイセスとフェイセズの創設メンバーとして知られ、ベース、ボーカル、作詞作曲を担当した[1]。フェイセズ脱退後はスリム・チャンスを率いて活動し、ピート・タウンゼントとの共作アルバム『ラフ・ミックス』などを発表した。
来歴
生い立ち
1946年4月1日、当時エセックスに属していた東ロンドンのプラーストウに生まれた[1]。父親からギターを勧められ、10代の頃から音楽活動を始めた。
ドラマーのケニー・ジョーンズらとアウトキャスツを結成した後、アメリカのリズム・アンド・ブルースを共通の好みとしていたスティーヴ・マリオットと出会った[1]。
スモール・フェイセズ
1965年、レーン、マリオット、ジョーンズ、キーボード奏者のジミー・ウィンストンによってスモール・フェイセスが結成された。ウィンストンの脱退後はイアン・マクレガンが加入した。
レーンはベースとボーカルを担当したほか、マリオットと共同で「オール・オア・ナッシング」「イチクー・パーク」「レイジー・サンデー」などを作曲した。
1968年に発表されたアルバム『オグデンズ・ナット・ゴーン・フレイク』では、収録曲の多くをマリオットと共同で作曲した。マリオットが脱退したことにより、スモール・フェイセスは1969年に活動を終了した。
フェイセズ
スモール・フェイセスに残ったレーン、マクレガン、ジョーンズは、ジェフ・ベック・グループに所属していたロッド・スチュワートとロン・ウッドを迎え、1969年にフェイセズを結成した[3]。
レーンはベースとボーカルを担当し、「デブリ」「ユアー・ソー・ルード」「グラッド・アンド・ソーリー」「ウー・ラ・ラ」などを作曲または共作した[1]。
1973年6月にフェイセズからの脱退を発表し、同月6日の公演がレーンにとって最後のフェイセズ公演となった[4]。
スリム・チャンス
フェイセズ脱退後、レーンは自身のバンド「スリム・チャンス」を結成した[1]。
1974年にシングル「ハウ・カム」を発売し、全英シングルチャートで最高11位を記録した。続く「ザ・ポーチャー」は最高36位を記録した[5]。
同年、ファースト・アルバム『エニィモア・フォー・エニィモア』を発表した。その後アイランド・レコードへ移籍し、『ロニー・レーンズ・スリム・チャンス』(1975年)と『ワン・フォー・ザ・ロード』(1976年)を発表した。
レーンはスリム・チャンスとともに、ロックコンサートとサーカスを組み合わせた巡業企画「パッシング・ショー」も行った。しかし大規模な機材や出演者を伴う興行は採算が取れず、レーンは大きな損失を抱えた。
『ラフ・ミックス』
1976年、スモール・フェイセスの再結成に参加する予定だったが、リハーサル後に離脱した。一方で再結成に関連してアトランティック・レコードとの契約が成立していたため、レーンにはアルバムを制作する義務が残った。
そこで友人だったザ・フーのピート・タウンゼントと共同でアルバムを制作した。グリン・ジョンズのプロデュースにより録音された『ラフ・ミックス』は1977年に発表された[6][7]。
同作にはエリック・クラプトン、チャーリー・ワッツ、イアン・スチュワートらも参加した。
メヘル・バーバーとの関わり
レーンはタウンゼントを通じてインドの精神的指導者メヘル・バーバーの教えに触れ、その信奉者となった。
バーバーに捧げて制作されたアルバム『ハッピー・バースデイ』(1970年)、『アイ・アム』(1972年)、『ウィズ・ラヴ』(1976年)に、タウンゼントやほかの信奉者とともに参加した。
多発性硬化症
1977年、レーンは筋肉の制御に異常が現れたことから多発性硬化症と診断された[1]。母親や兄弟も同じ病気を患っていた。
発病後も作曲や録音活動を続け、1979年にはアルバム『シー・ミー』を発表した。1980年代になると症状が進行し、杖や車椅子を使用するようになった。
1983年9月20日、多発性硬化症の研究を支援するため、ロンドンのロイヤル・アルバート・ホールで「ロニー・レーン・アピール・フォー・ARMS」が開催された[8]。
公演にはクラプトン、ジェフ・ベック、ジミー・ペイジ、スティーヴ・ウィンウッド、ビル・ワイマン、ワッツ、ウッド、ジョーンズらが出演した[8]。成功を受けてアメリカでも複数の公演が開催された。
1984年には療養を兼ねてアメリカへ移住し、テキサス州オースティンを中心に音楽活動を続けた。1990年にはマクレガンらと日本公演を行った。1992年にウッドとマクレガンと共演した公演が最後のステージとなった。
死去
1997年6月4日、多発性硬化症が進行する中で肺炎を発症し、51歳で死去した[9]。トリニダードのメイソニック墓地に埋葬された。
評価と顕彰
ディスコグラフィ
スタジオ・アルバム
- 『エニィモア・フォー・エニィモア』 - Anymore for Anymore(1974年、スリム・チャンス)
- 『ロニー・レーンズ・スリム・チャンス』 - Ronnie Lane's Slim Chance(1975年、スリム・チャンス)
- 『ワン・フォー・ザ・ロード』 - One for the Road(1976年、スリム・チャンス)
- 『マホニーズ・ラスト・スタンド』 - Mahoney's Last Stand(1976年、ロン・ウッドとの共作)
- 『ラフ・ミックス』 - Rough Mix(1977年、ピート・タウンゼントとの共作)
- 『シー・ミー』 - See Me(1979年)
- The Legendary Majik Mijits(2000年、スティーヴ・マリオットとの共作)
ライブ・アルバム
- You Never Can Tell: The BBC Sessions(1997年)
- Live in Austin(2000年)
- Rocket 69: Live on German TV(2001年)
- Ronnie Lane Memorial Concert(2021年)
編集アルバム
- Kuschty Rye: The Singles 1973–1980(1997年)
- Tin and Tambourine(1999年)
- April Fool(1999年)
- How Come(2001年)
- Ain't No One Like(2003年)
- Just for a Moment(2006年)
- Ooh La La: An Island Harvest(2014年)
- Just for a Moment: Music 1973–1997(2019年)
参加作品
ビリー・ニコルス
- Would You Believe(1968年)
メヘル・バーバー関連
- 『ハッピー・バースデイ』 - Happy Birthday(1970年)
- 『アイ・アム』 - I Am(1972年)
- 『ウィズ・ラヴ』 - With Love(1976年)
ピート・タウンゼント
- 『フー・ケイム・ファースト』 - Who Came First(1972年)